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Cray-1(クレイ ワン)は、シーモア・クレイ率いるクレイ・リサーチ社が設計したベクトル型スーパーコンピュータである。この種類のコンピュータの基本構成を確立し、当時世界最高速であった。最初のCray-1システムはロスアラモス国立研究所に 1976年に納入された。Cray-1のアーキテクトはシーモア・クレイ、主任技術者はクレイ・リサーチの共同創設者であるレスター・デーヴィスだった〔C.J. Murray, "The ultimate team player," ''Design News'', 6 Mar. 1995.〕。 == 歴史 == 1970年代初め、シーモア・クレイはCDCで CDC 8600 という新しいマシンの開発に従事していた。8600はクレイがかつて設計した CDC 6600 や CDC 7600 の後継機である。8600は4台の7600をひとつの筐体に収めたもので、追加された特別なモードによって全体でSIMD的な動作をすることができるものであった。 クレイの初期設計のパートナーだったジム・ソーントンはさらに先進的な CDC STAR-100 と呼ばれるプロジェクトを開始した。8600の力ずくの性能向上手法とは異なり、STARは全く異なる方法を採用した。STARのメインプロセッサは7600よりも性能が悪かったが、科学技術計算の性能向上のための特別なハードウェアと命令を追加していた。 1972年に、開発中の8600はマシンがあまりにも複雑であったために、部品のどれかひとつが故障してもシステム全体が動作できなくなり、正常に動作させることができなかった。そこでクレイはCDC社長のウィリアム・ノリスと会い、設計を最初からやり直す必要があることを告げた。しかし当時のCDCは深刻な財政的問題を抱えており、また並行するSTAR-100の開発もあったため、社長ノリスは8600へのこれ以上の追加投資ができないとして開発中止を決定した。 結果として、クレイはCDCを辞め、CDCの研究所のすぐ近くに新たな会社を設立した。に土地を購入し、彼とCDCの元従業員らはアイデアを探し始めた。当初、小規模なベンチャー企業にはスーパーコンピュータの構築は不可能と思われたが、クレイの最高技術責任者がウォール街に行ってみると、多くの投資家がクレイへの出資に意欲を見せた。彼らに必要なのは設計だけであった。 1975年、クロック80MHzでピーク性能160MFLOPSのCray-1が発表された。反響は大きく、ローレンスリバモア国立研究所とロスアラモス国立研究所が第一号機(SN-1)の争奪戦を繰り広げたほどである。結局、後者が勝ち、半年後の1976年に第一号機が納入された。クレイ・リサーチ社の公式の最初の顧客はアメリカ大気研究センター(NCAR)であり、1977年7月に886万ドルを支払い(790万ドルが本体、100万ドルがディスクの代金である)、3号機を入手した。NCARのマシンは1989年1月まで使用された。クレイ・リサーチ社は1ダースほどの販売を予定していたが、実際にはCray-1は80台以上販売されて、価格は500万から800万ドルであった。このマシンによってクレイは名士となり、会社は1990年代の凋落までは成功を収めたのである。 80MFLOPS(ピーク160MFLOPS)のCray-1の後継機は、1982年の800MFLOPSの Cray X-MP である。これはクレイ社初のマルチプロセッサ機であり、X-MP/48 は Cray-1 の次の世界最高速のスーパーコンピュータとなった。1985年、後継機として革新的なCray-2が登場した。ピーク性能は 1.9GFLOPSであったが、商業的にはあまり成功しなかった。 その理由は、高い理論ピーク性能に比べて実際のアプリケーションを動作させたときの性能が(メモリバンド幅がネックとなり)十分には発揮できなかったからである。そのため、Cray-1や Cray X-MP を基にして拡張した Cray Y-MP が1988年に投入されることになった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「Cray-1」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Cray-1 」があります。 スポンサード リンク
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