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CU-12 ( リダイレクト:小田急電鉄の鉄道車両 ) : ウィキペディア日本語版
小田急電鉄の鉄道車両[おだきゅうでんてつのてつどうしゃりょう]
1927年に合計30両の旅客車両で、新宿から小田原まで一挙に開業した小田原急行鉄道は、当初は旅客数は少なく、経営的には厳しい状態が続いていた。戦時体制になってからは旅客数も上向きとなり、終戦後に小田急電鉄として新発足してからは、新宿から小田原までの速達化を目指してさまざまな新技術を試みた。これらの成果は、新宿から箱根に向かう特急ロマンスカーの車両に反映された。その一方で、通勤輸送においては経済性を重視する傾向が顕著になった。こうした小田急電鉄の鉄道車両(おだきゅうでんてつのてつどうしゃりょう)の歴史および特徴について記述する。
本項では便宜上、以下のような表記を使用する。
* 「小田急」と表記した場合、小田原急行鉄道および小田急電鉄。
* 「地下鉄」と表記した場合、帝都高速度交通営団および東京地下鉄
* 「国鉄」と表記した場合、鉄道省運輸通信省運輸省および日本国有鉄道が運営していた国有鉄道事業。
* 「特急車両」と表記した場合、特別料金を徴収する列車に運用される車両全般。
* 「通勤車両」と表記した場合、特別料金を徴収しない列車に運用される車両全般。
* 「湯本急行」と表記した場合、箱根湯本へ直通する急行列車
== 車両史 ==

=== 創業期 ===

1927年4月1日に小田原線が開業した当時に用意された車両は、「甲号車」と呼ばれる長距離列車用の101形が12両〔、「乙号車」と呼ばれる短距離列車用の1形が18両〔という内容で、いずれも当時としては近代的な車両であった。同年10月の全線複線化開業時には、甲号車として121形・131形が各3両ずつ〔と151形が5両〔増備され、手荷物輸送用に荷物電車が4両導入された〔ほか、このときに開始された貨物輸送のために電気機関車が2両導入された〔。しかし、旅客・貨物とも輸送実績は低調であった〔。1929年4月1日に江ノ島線が開業した際には、201形・501形・551形が合計35両増備された〔。この501形・551形は小田急では初の制御車であった〔。しかし、夏季の海水浴客輸送の時こそ全車両をフル稼働させていた〔ものの、平常時の輸送実績は低調なままであり、ほとんどの列車は1両か2両で足りている有様であった〔。
過大な初期投資〔に加えて昭和初期の不況〔、さらに乱脈経営〔が祟り、厳しい経営状態を余儀なくされた〔小田急にとって、救いとなったのは1929年11月14日から開始された砂利輸送であった〔。東京へ直結するという線形が注目され〔、1930年には砂利輸送用の無蓋貨車の大量増備を迫られるほどになった〔。1931年には砂利輸送専用の運行時刻が設定され〔、1936年には小湊鐵道鹿島参宮鉄道から余剰の無蓋貨車を購入して賄う〔ほどの盛況となった。
1930年代後半になると、沿線にの施設ができたこともあり、旅客輸送量は上向きとなってくる〔。しかし、まだ新車を導入するほどの余裕はなかった〔ため、国鉄から木造電車の払い下げを受け、51形として運用を開始した〔が、これは創業以来、小田急の歴史上で唯一の木造電車であった〔。また、収容力を増大するためにクロスシートを装備した車両のロングシート化なども行っていた〔が、車両不足は解消されなかったことから、国鉄から木造客車の払い下げを受け、その台枠を利用して601形制御車の導入を行った〔。
その後も輸送需要の増加は続き、業績も回復傾向にあった〔ことから、1941年には201形以来12年ぶりに新型車両10両を導入することになった〔。この新車は当時の最新技術を導入することになり〔、形式も1000形として設計・発注が行われた〔。しかし、1942年には東京急行電鉄大東急)に合併となったことから、実際に現車が登場した時点では1600形となっていた〔。1600形は寸法的にはそれまでの車両とはほとんど変わらなかった〔が、窓の大きく軽快な車体スタイルと、歯数比を小さくした上で高速域まで自動的に進段するという当時としては高性能な電車で、「沿線の鉄道ファンからも好評を博した」と伝えられている〔。
戦争中は大きな被害はなかったものの、終戦近くになってに井の頭線永福町車庫空襲により壊滅的な被害を受け、急遽応援の車両を回すことを余儀なくされたことや〔、当時東急に経営が委託されていた相模鉄道厚木線へ車両を融通した〔ことから苦しい状態が続いた。終戦直前には、電力節約や車両保護を目的として1945年6月には並列ノッチの使用禁止という事態になり〔、新宿と小田原の間に2時間半も要する有様であった〔〔1991年7月時点で、小田原17時50分発の各駅停車新宿行きについては新宿着が20時30分となっており、所要時間が2時間40分であったが、これは途中9駅で合計13本の優等列車待避があるので、一概に比較できるものではない。〕。一方で、東海道本線が空襲の影響で不通になった際には、国鉄の車両も使用して代替ルートとして機能させていた〔。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「小田急電鉄の鉄道車両」の詳細全文を読む




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