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アルフレッド・ドニ・コルトー(Alfred Denis Cortot, 1877年9月26日・スイス、ニヨン - 1962年6月15日・スイス、ローザンヌ)は、20世紀前半のフランスを代表するピアニスト、指揮者、教育者、著述家。 == 略歴 == ブルゴーニュにルーツを持つフランス人を父として、ジュラ地方にルーツを持つスイス人を母としてスイスに生まれる〔ベルナール・ガヴォティ『アルフレッド・コルトー』p.10(白水社、1982年)〕。彫刻家ジャン=ピエール・コルトーや作曲家エドガー・ヴァレーズは親戚にあたる。苗字の本来の綴りはCortoであり、祖先はカタルーニャ出身とも考えられている。 2人の姉の指導ののち、パリ音楽院予備科でショパンから助言を得たことのあるエミール・デコムに、高等科ではルイ・ディエメに師事、1896年にショパンのバラード第4番で一等賞を受賞。しかし、予備クラスを落第したこともあり、サン=サーンスから酷評されたこともあるなど、音楽院内の評価は当初あまり芳しくなかった〔ただし、サン=サーンスは音楽院に直接関係していたわけではない〕。 ピアニストとして楽壇にデビューしたが、ワーグナーの作品に傾倒し、先輩であったエドゥアール・リスレール(1873-1929)に従ってバイロイトに赴き、1896年から1897年までバイロイト音楽祭の助手を務めた。1902年頃からは指揮者として活動、ワーグナーのオペラ『神々の黄昏』のフランス初演を行うなどした。〔これらの録音はない。〕1905年にはヴァイオリニストのジャック・ティボー、チェリストのパブロ・カザルスとカザルス三重奏団を結成、1920年代後半にいたるまで素晴らしい演奏を繰り広げたが、最終的にはティボーとの仲が疎遠になって解散した。第一次世界大戦後はピアニストとして欧米をあまねく巡演、広く賞賛を集めた。 1907年にパリ音楽院の教授に就任したが、「音楽院の育成は、ピアニストだとピアノのことしか出来なくなる輪切りシステムだ」と言いつつ改革を訴えていた。1919年に理想の実現の為、オーギュスト・マンジョとともに自らの音楽学校「エコールノルマル音楽院」を設立し、同年パリ音楽院を辞任。さらに教育活動にも力を注ぎ、朝から公開レッスンを精力的に行った。エコールノルマル音楽院には彼の名を冠したサル・コルトーという響きの優秀なホールがある。コルトーが絶賛したがコンクールで優勝できなかったとして審査員を降りるという行動でディヌ・リパッティをデビューさせたこともある。〔コルトーの招きでEMIと専属契約したのはこれが発端〕 第二次世界大戦に際してはヴィシー政権と関わりをもち、フランスの未曾有の国難に対処しようとしたが、戦後はナチスの前で大量に演奏した事などの責を問われ、フランス国内での演奏の機会を完全に奪われるなど不遇であった。1952年には来日もしており、ベートーヴェンのピアノソナタ第14番「月光」などを演奏した。来日時の演奏中の写真、サインに応じる写真も多く残されている。 妻のいとこリーズ・ブルムはレオン・ブルムの最初の妻〔ベルナール・ガヴォティ『アルフレッド・コルトー』p.125(白水社、1982年)〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「アルフレッド・コルトー」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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