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エヴリシング・バット・ザ・ガール(Everything But the Girl: EBTG)は、イギリスの2人組音楽バンドである。ネオ・アコースティックの代表的なバンドとして知られる。デビュー当時はアコースティックを基調としたシンプルなサウンドであったが、キャリア中期からエレクトリックサウンドを大々的に取り入れ、クラブシーンでも知られるようになる。 == 概要 == それぞれチェリーレッド・レコードから作品を発表しハル大学に在学していたマリン・ガールズのトレイシー・ソーンと、ベン・ワットの二人が、レーベル企画によって1982年に結成されたユニット。元々短期活動ユニットの計画であったが、思わぬ評判により息の長い活動となった。 グループ名は「女の子以外は何でも」という意味で、ハル大学の近くにあった家具や雑貨を扱う店の名前(この場合は、女の子以外は何でも売っているという意味)から取られたと言われている。 チェリーレッド社の企画からビリー・ホリデイの“ナイト・アンド・デイ”をA面に、お互いのオリジナル曲をB面に入れたシングルをレーベルの意図によって制作。この曲を聴いてエルビス・コステロは狂喜し、ジャム解散直後のポール・ウェラーはハル大学へ押しかけステージに飛び入りした程であった。 1984年にブランコ・イ・ネグロ・レコードから発売されたファースト・アルバム『エデン』はUKチャート14位を記録し、「ポスト・パンクからネオ・アコースティック・ムーブメントへの道を切り開いた作品」と評されている〔Amazon.co.jp 〕。 アルバムごとに、映画音楽・ジャズ・AORなど様々な要素を取り入れ、やがて、ソウル・II・ソウルなどのダンス・ミュージックにも着目するようになり、パーカッションのプログラミングなどに反映されるようになる。しかしながらこの時点では、日本では「お洒落に敏感なOL層」に人気のアーティストといった取り上げられ方であった〔CDジャーナル 〕。すでに80年代終盤には、ガラージュ・ハウスのアルバムを制作することも考えていたが、その時点ではEBTGにどのようにハウス・サウンドを関連付けるかが定まらず、実現はしなかった。 その後も順調にリリースを重ねていたが、1990年にベンが難病(チャーグ・ストラウス症候群、現在の好酸球性多発血管炎性肉芽腫症)に罹り、病院をたらい回しにされる状態のうちにやがて倒れてしまう。回復はしたものの、生死の境をさまよう状態であった。ベンの療養中に、トレイシーはマッシヴ・アタック等と共演しており、これらの経験が後のサウンド面での変化につながってゆくことになる。 サウンド面での変化が如実に現れたのが、ベンが復帰してからの1994年のアルバム『アンプリファイド・ハート』発表後にリリースされたシングル『ミッシング』のトッド・テリーによるリミックス・バージョンであり、この曲は全英3位、全米2位〔Amplified Heart - Everything But the Girl : Awards : AllMusic 〕まで上昇する大ヒットを記録した。以降、「ドラムンベースは現代のボサノヴァ」と解釈し、ブレイクビーツ、ハウスといったエレクトロニック・ミュージックの要素を全面的に取り入れていくようになる。 1996年の『哀しみ色の街』からはヴァージン・レコードに移籍。翌97年には、U2のツアーサポートをオファーされるものの、「今以上に楽しむ活動を求めていなかったから」という理由で断念。1999年のアルバム『テンパラメンタル』をリリースしたのちの2000年に解散していたことが、英『ガーディアン』でのインタビューで明らかにされた。解散の理由を、トレイシーは自身の子供と過ごす時間を取りたかったからと語っている。〔Everything But the Girl: 'You feel like you're listening to a different person' | Music | The Observer 〕。 一方、ベンも2009年の日本向けインタビューで、「15年間もメジャーレーベルで作品をリリースしていたから、何か新しいことにチャレンジしたくて。最終的にはトレイシーが「業界を抜けて家族を持ちたい」と言ったことがキッカケになり、現在に至る道を歩んできたわけさ」と語っている〔BEN WATT Interview | クラベリア 〕。『ガーディアン』でのインタビューでは、巨大化したバンドの現状に疑問を抱いていたことも明かされた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「エヴリシング・バット・ザ・ガール」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Everything but the Girl 」があります。 スポンサード リンク
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