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CMLL(''Consejo Mundial de Lucha Libre'')は、メキシコのプロレス団体。 == 概要 == 団体の活動中心はメキシコシティで、アレナ・メヒコでの定期興行が有名である。 1933年設立。かつてはEMLL(''Empresa Mexicana de la Lucha Libre'')と呼ばれていた。今日現存するプロレス団体において、世界最古の歴史を持つことが特徴である。 1931年にサルバトール・ルタ・ゴンザレスがアメリカとメキシコ国境のエルパソでプロレス興行を見たことからメキシコでのプロレス興行を企画、メキシコシティの廃墟同然のボクシング会場アレナ・モデロと賃貸契約を結び会場を修復、会場名を「アレナ・メヒコ」に変え、1933年9月21日に同地にて興行が行われたのが団体の興りである〔「週刊プロレス」2016年2月10日号 pp56 - 57〕。旗揚げ戦には、ヤキ・ジョージ、ボビー・サンプソン、シクロン・マケイ、レオン・チン・アチウが参加した〔。 しばらくはアメリカから選手を呼び寄せて興行を行っていたが、地元選手の育成が急務と判断したサルバドールは、柔術の心得のある友人のゴンザレス・アベンダーニョ・アギーラルを呼び寄せてアレナ・メヒコでルチャ教室を開校、これがのちのルチャの基盤となっているという〔。そして1934年にはアベンターニョの教え子たちがデビューし、純国産のルチャドールが誕生する〔。ほどなく観衆は増え、500人ほどのキャパシティしかない初代アレナ・メヒコは手狭で、ボクシングの会場であるアレナ・ナショナルやレオ・デ・コンデザ闘牛場にも進出している〔。1940年にはのちにWWWA世界女子王座の創設者ミル・レッドバーグも来墨している〔。 サルバドールが個人的に買った宝くじに当選し、その当選金を用い1938年に自社所有会場の建設に着手、1943年にアレナ・コリセオとして完成、使用が開始された〔。そして1954年10月アレナ・メヒコの改築工事も着手した(1956年完成)。この時期にタルサン・ロペスが台頭すると、1942年にデビューしたエル・サントを始め、カベルナリオ・ガリント、ゴリー・ゲレロ、ブルー・デモン、ブラック・シャドーなども台頭し1940年代から50年代にかけて最初の黄金期を迎えることとなる〔。この頃はメキシコにはEMLL(CMLL)しか団体が存在しなかったため、ルチャリブレといえばEMLL、EMLLといえばアレナ・メヒコであったため、大衆からはルチャリブレやEMLLではなく「アレナ・メヒコ」と呼ばれることが普通だった〔。また、同時期にはNWAにも属し、NWA加盟時に管理・運営を任されていた世界ライトヘビー級王座、およびNWA王座としてミドル級・ウエルター級の王座を一任された〔。 1975年にUWAが旗揚げされ、EMLLの独裁状態に嫌気を差した選手達が大量離脱しため、大打撃を受けた〔。1980年代はUWAの影に隠れるような停滞期に突入していた。 1990年に入り、それまでメキシコ国内では禁止されていたルチャリブレの国内テレビ中継が解禁となり、地元テレビ局テレビサによるEMLLの中継番組の放送が開始された〔。テレビ開始にあわせ、企画部長だったアントニオ・ペーニャによって、マスカラ・サクラダ、ミステリオッソ、ボラドールなどの新キャラクターが誕生、入場演出を豪華にするなど改革を行い、ルチャリブレはテレビを通して爆発的なブームとなった〔。 しかし1992年にアントニオ・ペーニャが独立してAAAを設立し業界のトップに躍進し、しばらくはアレナ・メヒコの集客が閑古鳥が鳴くほど悲惨な状態となるが、テレビ中継による放映権料と自前の会場による最低限の経費でこの危機を乗り切り〔、1995年、AAAを離脱しルードにターンしたエル・イホ・デル・サントを獲得〔、ネグロ・カサスの抗争で人気を博した。 2005年、初代ミスティコがデビューし大人気となり、ドクトル・ワグナー・ジュニアらを加えたメンバーにより団体は人気を取り戻し、アレナ・メヒコに大観衆が詰めかけるようになった、〔そしてこの頃に団体名を「CMLL」に統一した〔。 1990年からは女子プロレス部門も創設した。幾度の休止を経て、2004年に復活して現在に至る。 現在の社長はゴンザレスの孫パコ・アロンソで1980年に就任した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「CMLL」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Consejo Mundial de Lucha Libre 」があります。 スポンサード リンク
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