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FP-45[えふぴー45]
FP-45は、1942年にアメリカのゼネラルモーターズ社(GM)で設計された拳銃である。リベレーター(Liberator、解放者)やウールワース・ガン(Woolworth Gun, ウールワースは安売雑貨店の名)の通称で知られる。 == 歴史 == 1942年3月、既にナチス・ドイツの侵攻を受けて国土を失っていたポーランド亡命政府から連合各国に対し、占領下にある各国の対独抵抗運動に武器の供給を行うよう要請がなされた。これを受けたアメリカ陸軍合同心理戦委員会(Joint Psychological Warfare Committee)では、一般の装備の生産に影響を及ぼさないような、安価かつ早急に生産しうる銃器の設計を模索し始めた。やがて、プレス加工の鋼材とライフリングが刻まれていない滑腔銃身から成る安価なピストルが提案された。このピストルに軍用銃として十分な性能は期待されておらず、抵抗運動の闘士らが小銃や短機関銃といった「まともな」銃器を奪うべく敵兵を襲撃する際に用いられることを想定していた。陸軍はゼネラルモーターズ社の国内製造部(Inland Manufacturing Division)に連絡し、同部のチーフデザイナーだったジョージ・ハイド(George Hyde)に特殊ピストル設計プロジェクトを依頼した。 この特殊ピストルの設計は秘密裏に進められた。本来の目的を秘匿する為、開発はFlare Projector-.45 caliber(45口径信号弾発射機)すなわちFP-45の名称で行われ、設計図では銃身部を「チューブ」(tube)、引き金部を「継鉄」(yoke)と呼んでいた。作業は25平方フィート程度の小さな部屋で行われ、この部屋への出入りはハイドのほかプロジェクトに直接関係する極小数の者のみに認められていた。いくつかの試作品を経て、軍部から設計が承認されたのは1942年5月のことである。この時点で国内製造部はM1カービンの製造を開始していた為、FP-45は自動車部品のプレス加工設備があるインディアナ州アンダーソンのガイドランプ部(Guide Lamp Division)にて行われることとなった。1942年5月15日、ガイドランプ部と軍部の間でFP-45ピストル100万丁分の生産契約が結ばれた。製造に参加した従業員およそ300人はプロジェクト参加に当たり秘密厳守の宣誓を行った。1942年6月第2週から生産が始まり、従業員の24時間7日間労働の末、8月21日には早くも100万丁の生産を達成した。この数字から推定されるピストル1丁あたりの平均組立時間はわずか6.6秒であった〔。 当初、合同心理戦委員会ではヨーロッパの被占領国に対する空中投下を計画しており、フランスへの投下に備え50万丁のFP-45がイギリスへと送られた。しかし、ドワイト・D・アイゼンハワー将軍はこの計画に否定的で、FP-45のうち25万丁のみを「緊急時に使用しうる」として受け取り、残りは他戦線で運用するべきだとした。また、同種の火器をこれ以上生産する必要はないとも語った。こうして大半のFP-45は太平洋・極東方面に送られたが、この方面の指揮を執るジョセフ・スティルウェル将軍やダグラス・マッカーサー将軍もFP-45の計画に大した関心は抱かず、大規模な投下は行われなかった。こうした状況でFP-45に興味を示したのが、秘密活動部局である戦略諜報局(OSS)のウィリアム・ドノバン長官であった。その後、国内で保管されていた45万丁ほどのFP-45の大半はOSSに引き渡されている〔。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「FP-45」の詳細全文を読む
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