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HY戦争(エイチワイせんそう)は、1979年(昭和54年)頃から1983年(昭和58年)頃にかけて、本田技研工業(以下:「ホンダ」)とヤマハ発動機(以下:「ヤマハ」)がオートバイ市場において激しくしのぎを削った覇権争いを指す。 == 背景 == === ホンダとヤマハの因縁 === 世界のオートバイ製造第1位のホンダと、同第2位のヤマハ発動機との間には深い因縁がある。第二次世界大戦当時、戦闘機用プロペラを製造する軍需工場となった日本楽器製造(現:ヤマハ)の社長であった川上嘉市は、金属加工技術に乏しく生産性が上がらない同社の状況に悩み、東海精機重工業(現:東海精機)の当時社長であった本田宗一郎を頼った。宗一郎はカッター式自動切削機を自作し、金属プロペラの製作時間はそれまでの一週間からわずか15分へと劇的に短縮された。嘉市は宗一郎を「日本のエジソン」と高く称賛し、特別顧問に迎えた〔佐藤 (2008)、第四章ドンの重し、pp.403-404〕。 戦争終結後、オートバイ製造に転換したプロペラ工場は、ヤマハ発動機として産声を上げた。ここでも嘉市は助言を求め、宗一郎がこれに応える関係は続き、ヤマハ発動機創立に貢献した。当時、日本楽器製造は本社社長を兼ねる嘉市の長男・川上源一が就任していたが、彼は若い頃から常々宗一郎の高い能力を聞かされていたため異存を持たなかった。それどころか、1977年自らが会長に退くに当たり、当時のホンダ社長・河島喜好の実弟である河島博を日本楽器製造の専務から社長に昇格させ、後任に据えた。このような背景から、ホンダと日本楽器製造・ヤマハ発動機には地縁的同業という枠を越えた、一種の蜜月関係にあると業界は見ていた〔佐藤 (2008)、第四章ドンの重し、p.404〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「HY戦争」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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