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本初子午線(ほんしょしごせん)とは、経度0度0分0秒と定義された子午線(経線)のことである。「本初」とは「最初・首位」という意味である。 赤道や地理極という明確な基準のある緯度と異なり、経度には明確な基準が自然には存在しないため、本初子午線は人為的に設定する必要がある。過去、世界各地で様々な子午線が本初子午線に設定されてきた〔Prime Meridian , geog.port.ac.uk〕。加えて、経度の測定には技術的な困難があった(→経度の歴史)。 2012年現在ではIERS基準子午線が、国際的に使用される本初子午線となっている。このIERS基準子午線はイギリス・ロンドン郊外のグリニッジ天文台を通過するグリニッジ子午線(エアリーの子午環)から東に5.3101秒、距離にして約102.5 mの位置を通過している(後述)。したがって、グリニッジ子午線は、本初子午線ではなくなっているのであるが、二つの子午線は、全地球的には極めて近いことから、現在でも「グリニッジ子午線」が「本初子午線」の意味で用いられることがある。 本初子午線は、180度経線とともに大円を形成する。この大円により、地球表面は2つの半球に分けられ、本初子午線の東の半球を東半球、西の半球を西半球という。 == 歴史 == 経度の記法はアレクサンドリアのエラトステネス(紀元前276年頃 - 紀元前195年頃)とロドスのヒッパルコス(紀元前190年頃 - 紀元前120年頃)によって考案され、地理学者ストラボン(紀元前63年頃 - 23年頃)によって数多くの都市に適用された。しかし、世界地図に一貫性のある経度を使用したのは、プトレマイオス(90年頃 - 168年頃)の著書『』(Geographia、地理学)が最初であった。 プトレマイオスは、"Fortunate Isles"と呼ばれたカナリア諸島(西経13 - 18度)などの大西洋の島々を基準とした。アフリカの最西端(西経17.5度)より西に本初子午線を設定することにより、プトレマイオスの地図には負の経度が現れない。プトレマイオスの本初子午線は、ウィンチェスター(およそ西経20度)より西に18度40分の子午線に相当する。このときよく用いられていた経度観測法は、異なる国での月食の観測時間を比較する方法であった(月食は世界中で同時に観測されるため)。 プトレマイオスの『ゲオグラフィア』は、その地図とともに1477年にボローニャで初めて印刷された。そして、初期の地球儀はプトレマイオスの地図を元に作成された。しかし、「自然の」本初子午線を画定するという試みは引き続きあった。クリストファー・コロンブスは1493年に、大西洋の中央のどこかで方位磁針が真北を指した(自差が0になった)と報告した。そして、この報告を元に、1494年のトルデシリャス条約で、スペインとポルトガルの間で新世界の境界が定められた。トルデシリャス条約で定められた境界は、ベルデ岬から西に370リーグの子午線に設定された。これがの1529年の地図に表されている。 遅くとも1594年のクリストファー・サクストンのころまで、アゾレス諸島のサンミゲル島(西経25.5度)が本初子午線として使用されてきたが、この頃から、方位磁針の自差が0になる線は子午線に沿って直線状に伸びるものではないということがわかってきた。 1541年、メルカトルは41cmの地球儀を作成し、カナリア諸島のフエルテベントゥラ島(西経14度1分)を通る箇所に本初子午線を引いた。彼の後の地図では、磁気の仮説に従ってアゾレス諸島を本初子午線とした。 しかし、1570年にオルテリウスが最初の地図を刊行する頃には、ベルデ岬のような他の島が本初子午線として使用されるようになってきた。オルテリウスの地図では、経度は今日のような西経180度から東経180度ではなく、0度から360度であった。この経度は18世紀まで使用された。〔例えば、ヤーコプ・ロッヘフェーンは1722年にイースター島の経度を268度45分(フエルテベントゥラ島を0度として)と報告している〕。 1634年、フランスの政治家リシュリューは、パリから西に19度55分の所にあるカナリア諸島最西端のフェロ島を本初子午線とした(フェロ子午線)。不幸にも、フランスの地図製作者がパリとフェロ島との経度差をちょうど20度に丸めていたことから、フェロ子午線がフランスの本初子午線に採用されることとなった〔Speech by Pierre Janssen, director of the Paris observatory, at the first session of the Meridian Conference. 〕。 18世紀初頭、ジョン・ハリソンによるクロノメーターの開発と、正確な星図の発達により、海上における経度の測定が改善された。星図については特に、初代イギリス王室天文官のジョン・フラムスティードが1680年から1719年にかけて作成し、彼の後継者であるエドモンド・ハレーが広めた天球図譜が多くの航海者によって使われた。これにより航海者は、とジョン・ハドリーが開発した八分儀を使用して、によってより正確な経度の測定が行えるようになった。1765年から1811年の間、ネヴィル・マスケリンは49版の『』を刊行した。それは、グリニッジ天文台を通るグリニッジ子午線を基準とするものであった。マスケリンの航海年鑑は、月距法を実用的なものにしただけでなく、グリニッジ子午線を全世界の基準点とした。航海年鑑のフランス語訳では、マスケリンの計算結果をパリ子午線基準に換算していた。 その後、鉄道網の整備が始まると陸域でも地域共通の時刻が必要とされはじめた。イギリスではロンドンの時間であるグリニッジ平均時が鉄道の運行に用いる「鉄道時間」として採用が始まった。その後、イギリス全土で共通の時刻を用いるよう収斂していった。これはのちの標準時の考え方の元となった。 1850年、アメリカ合衆国は旧海軍天文台子午線を本初子午線に採用した(航海用にはグリニッジ子午線を採用)。アメリカは領土が東西に長く広い鉄道網を持っていたため、国内で統一した子午線を使うことが必要とされていた。 一方1875年、国際地理学会はカナリア諸島フェルロを基点とするフェロ子午線を基準子午線とすることを決議した。全世界的に採用するには特定国の首都などは避けたほうがいいという主張を受け入れたものだが、実際にはカナリア諸島を基点とするとパリを基準にするのとほぼ同じ意味になる(経度差がちょうど20度のため)という理由であった。しかし、この基準子午線はフランス以外の国には非常に不評だった。1881年に再度開かれた国際地理学会では、カナリア諸島は基点としては不適で重要な観測拠点となりうる天文台を基点とするべきだという主張が行われた。 1884年10月13日、アメリカ合衆国の提案で国際子午線会議がワシントンD.C.で開かれた。投票の結果、グリニッジ天文台を基点とする案が採用され、グリニッジ子午線は国際的な基準子午線となった。この会議には日本からは菊池大麓が参加した。フランスは中立国を基点とするよう主張したがフランスの提案地には重要な天文台がない場所が多かったため、この提案は顧みられず、フランスは決議に棄権した。他にブラジルも棄権し、ドミニカ共和国は反対したが、他国は賛成した。 日本では、江戸時代以前には暦の計算や測量などには京都にあった改暦所という役所を通る子午線を基準としていた。1871年に日本の基準子午線は東京の皇居(江戸城)富士見櫓を通る子午線に移された。1886年7月13日の勅令「本初子午線經度計算方及標準時ノ件」で、グリニッジ子午線を基準子午線として採用することが定められた。 フランスは1911年3月9日に、アメリカ合衆国は1912年8月22日にグリニッジ子午線を本初子午線として公式に採用した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「本初子午線」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Prime meridian 」があります。 スポンサード リンク
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