|
「我々は知らない、知ることはないだろう」(われわれはしらない、しることはないだろう、〔イグノラムス・エト・イグノラビムス。(現時点において)「無知である」という意味を持つ言葉「イグノラムス ()」と、(将来において)「無知だろう」という意味を持つ言葉「イグノラビムス ()」、この2語を日本語の「と」にあたるラテン語の接続詞「エト ()」で結んで作られた言葉。英語だと "" などと訳される。このラテン語の定まった日本語訳は特になく、カタカナでそのまま書かれることもある。2語セットではなく後者の Ignorabimus だけで引用されることも多い。以下、いくつか例を挙げる。 * 「吾等は知らず、知らざるべし (Ignoramus, ignorabimus)」レーモン 著、坂田 訳 (1928) p.10 * 「われわれは知らないし、知らないであろう (Ignoramus, Ignorabimus)」河田 (2003) * 「我々は知らないであろう (Ignorabimus)」稲葉 (2012) p.132 * 「我々は知りえない (ignorabimus)」寺尾 (2010) p.10 * 「将来も知らないであらう (Ignorabimus)」ワッセルマン 著、藤田 訳 (1925) * 「イグノラムス・イグノラビムス」中島敦(1942年)『狼疾記』青空文庫 (ちなみにこれは学術上の文献ではなく小説である)〕, イグノラムス・イグノラビムス)は、人間の認識の限界を主張したラテン語の標語。 19世紀末、ベルリン大学教授の生理学者エミール・デュ・ボア=レーモンによって、「ある種の科学上の問題について、人間はその答えを永遠に知りえないだろう」という意味で使用された。レーモンの主張は、当時のドイツ語圏において「イグノラビムス論争」と呼ばれる議論を引き起こした。 == 語源 == 「イグノラムス ()」と「イグノラビムス ()」はそれぞれ、「知らない」という意味のラテン語「イグノロ ()」の、一人称複数現在形と一人称複数未来形である〔河田 (2003)〕。この言葉は遡ると、「知識」という意味のギリシャ語「グノシ ()」に由来がある〔。「イグノラムス」はもともとは古英国において使用されていた法廷用語であった〔レーモン(1928) p.76〕。16世紀末の英国の法廷において、公訴が根拠のあるものか無根拠のものか、証拠が不十分で判断できなかった場合に、当時の大陪審が取ったのがイグノラムスという立場であったと言われる〔ignoramus - Oxford Dictionary Online 最終閲覧日 2012年6月3日〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「我々は知らない、知ることはないだろう」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Ignoramus et ignorabimus 」があります。 スポンサード リンク
|