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ジョセフ・ジェイソン・プッツ(Joseph Jason "J.J." Putz , 1977年2月22日 - )は、アメリカ合衆国・ミシガン州トレントン出身のプロ野球選手(投手)。右投右打。 == 経歴 == ミシガン大学最終学年の、ドラフト6巡目でシアトル・マリナーズから指名を受け入団。まではA級に、はAA級サンアントニオ・ミッションズに在籍し、当時は90マイルの速球、カーブとチェンジアップが武器であった〔小林信行「終わりの合図 JJ・プッツ」『スラッガー』2008年6月号、日本スポーツ企画出版社、2008年、雑誌15509-6、50 - 53項〕。 右肩を痛め、は開幕から故障者リスト入りで迎え、リハビリの過程で首脳陣と話し合い、右肩の負担を減らすためワインドアップをやめることを決断した〔。これにより球速が5マイル速くなり、ツーシームの方がフォーシームより速いという特徴が顕著になった〔。 のキャンプに中継ぎ転向を命じられ〔、8月11日のトロント・ブルージェイズ戦でメジャーデビューを果たす。翌開幕直前にロースターから漏れ、4月にメジャー昇格・降格を繰り返したが、メジャー定着した。最初の登板から10試合連続無失点を記録し、8月7日には初セーブを記録し、故障したエディ・グアダードに代わって9セーブを挙げる。 その後までは正クローザーはグアダードで固定されたためにセットアッパーとして投げる。当時は直球主体で押し切るスタイルだった〔。のキャンプでグアダードから「これを試してみたらどうだ。ノーシームだよ」と投げると落差が大きくなり、ボールの動きが安定し、スプリッターが改善された〔。 5月、師と仰ぎ、メンタル面での心構えなど、クローザーとして不可欠なものを正クローザーのグアダードから多く学んだ〔"Notes: Putz has a mentor in Guardado ," May 7 2006, MLB.com〕が彼が不振に陥ったため、7月6日にトレードでシンシナティ・レッズへ移籍し、代わりにクローザーへ転向〔。リリーフとしてはア・リーグ1位の104奪三振を記録するなど自身最高のシーズンを送り、1年でクローザーの地位を確立した。 1月、マリナーズと3年総額1,310万ドル、4年目の2010年は球団のオプションで860万ドルで契約を結んだ〔Mariners closer agrees to $13.1M, three-year contract ESPN,com 2008年3月15日閲覧〕。そして迎えた2007年シーズンは68試合に登板し、球団史上佐々木主浩の45セーブに次ぐ球団歴代2位となる40セーブを記録した〔。オールスターに初めて選出され、ローレイズ・リリーフマン賞を球団史上初めて受賞した。 2008年は4月1日のテキサス・レンジャーズ戦で右わき腹を痛め15日の故障者リストに入る。その後復帰するものの球威が戻らずセーブ失敗を繰り返し、11日のトロント・ブルージェイズ戦では右ひじを痛め13日に再び故障者リストに入った。結局、08年シーズンのセーブ失敗8個は、クローザー転向以来最悪の数字となった。 12月10日にマリナーズ、ニューヨーク・メッツ、クリーブランド・インディアンスの間で計12選手が移籍する三角トレードが成立し、ショーン・グリーン、ジェレミー・リードと共にメッツへ移籍した。 は抑えのフランシスコ・ロドリゲスに繋ぐセットアッパーとしてメッツでのキャリアをスタートさせた。 2009年12月11日に1年300万ドルでシカゴ・ホワイトソックスと契約した。5月14日から7月20日まで25試合連続無失点とし、球団記録を更新した。記録は27試合連続無失点まで伸ばした。 12月7日、2年総額1,000万ドルでアリゾナ・ダイヤモンドバックスと契約した。2013年の650万ドルはオプションとなった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「J.J.プッツ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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