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JWA関西 : ミニ英和和英辞書
JWA関西[じぇー だぶりゅー えー かんさい]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [せき, ぜき]
 (suf) honorific added to names of makuuchi and juryo division sumo wrestlers
関西 : [かんさい]
 【名詞】 1. Kansai (south-western half of Japan, including Osaka) 
西 : [にし]
 【名詞】 1. west 

JWA関西 : ウィキペディア日本語版
JWA関西[じぇー だぶりゅー えー かんさい]
JWA関西(ジェー・ダブリュー・エー・かんさい)は、かつて関西を中心に活動していたアマチュアプロレス団体(団体では「プロスタイルレスリング」と表現していた)。
== 歴史 ==
昭和50年代頃、プロレス団体と呼ばれる団体は新日本プロレス全日本プロレス全日本女子プロレスの3団体しか存在せず、プロレスラーとは一部の恵まれた体格を持つ者だけの存在であった。当時は大学のプロレス同好会が活動していたがそれは学園祭等で披露されるあくまでも「余興」的色合いが強く本物のプロレスとは大きく異なるものであった。
一方で実技形式で試合を行う団体が全国各地に存在し、1976年頃、関東で活躍していたビッグ赤平、関西で活躍していたブロンコ釣田とファイター藤本が交流を深めていく。
こうした流れの中、ファイター藤本は「常人体格者でもきちんとした基礎トレーニングを元にスポーツとしてのプロレスを確立し心身を鍛錬する事ができる」との信念の元、ブロンコ釣田と共にJWAの礎となるJr.NWAが創立される。
1978年8月20日、テレビ番組「11PM」において「アマチュアプロレス日本一決定戦」が開催され、藤本義一の立ち会いの元、ビッグ赤平とファイター藤本のライバル対決が実現。これに勝利したファイター藤本とビッグ赤平の2名を頂点とし大同団結。アマチュアプロレス全国統一機構JWAが結成される。全国統一機構であるがあくまでも各団体独立採算制を取っており、JWA同士での選手交流等もさかんに行われる事となる。最盛期には関西、関東、盛岡、浜松(後に東海と合流)東海の5団体が各地で熱戦を繰り広げていた。
こうした戦いの中「プロスタイルレスリング」というジャンルを確立しつつ、その後プロへとステップアップしていった選手、関係者も多い。アマチュアでありながら時にプロ選手の試合を超える数々の勝負を残し、評論家の田鶴浜弘からも高い評価を得ていた。
JWA関西は住吉公園体育会館を常設会場とし、2か月に一度のペースで試合を行い常時100名を超す観客が集まり、観客の中からも後にプロを志す選手を多数輩出した。また一時期女子部の設立も行っており、後にJDスター女子プロレスで活躍する鳥居はるみやJWP女子プロレス輝優優も輩出している。
団体としての運営は全て順調に見えたが、1992年練習中に所属選手が重傷を負う事故が発生。事態を重く見たJWA関西は一年間活動を休止し運営・活動内容について話し合われた。このようにアマチュアとしての運営を重視していたJWA関西は選手のケガ、事故等には徹底的に毅然とした対応を取っていた。
1993年にファイター藤本が別団体NPWを設立し、JWA関東もWINと名称変更。JWA東海は後にJWA東海プロレスを名乗り社会人プロレス団体として活動する事となる(名義上JWAを使用しているが活動内容はチケットの有料化等アマチュアプロレスとは異なる部分が大きいため本来のJWAの意味合いとは異なる)。
1998年8月16日には大阪府立体育会館第2競技場において創立20周年記念大会を開催。当時プロ団体でも集客の難しい時代の中、入場無料とは言えプロ団体を上回る入場者数を記録した。数々のOBの見守る中、リングアナウンサーにより「プロレス西の聖地にアマチュアプロレスが初見参!」とコールされると会場が大きく沸き、この日の大会ではNPWのファイター藤本もOBとして特別参戦しミッキー隼野と熱戦を繰り広げる。メインイベントでは当時のJWA関西とJWA東海の頂上タッグ対決(原田智也&ブラックアスカ組対シュガーウェーブ・ヤス&新村一樹組)が実現した(試合後、原田を破った新村に「30周年は俺が勝ってやる!」とアピールするが、皮肉にも活動停止となる30周年記念大会において原田が新村をフォールし実現される事となる)。
その後も大会を続けていたが、2003年頃あくまでアマチュアとしての存続にこだわる関西とプロ化を進めるJWA東海が方向性の違いから交流を休止。後にJWA東海はJWA東海プロレスと名称を変更し社会人プロレス団体として活動を継続。JWAの名前を残したまま二派に別れての活動となる。この頃にはすでに盛岡・関東も活動を停止しておりJWAは統一機構としての役目を終える事となる。
しかし、時代の流れとともにインディー団体の乱立によるプロ選手のレベル低下、所属選手の減少、スタッフの高齢化等の問題が浮上。わざわざアマチュアに行かずとも誰でもプロを名乗れる時代となった現在のインディー乱立状態に強い危機感を持っていたが、たとえアマチュアであってもプロレスとしてこれ以上試合のクオリティーを下げるべきではないという総意の元、30周年記念大会となる2008年10月26日大会をもってJWA関西は活動を停止した。
最後の大会となった30周年記念大会ではかつてのOBが集まったのをはじめ、交流を休止していた東海プロレスも提供試合を行い東海プロレスを脱退しプロに転向していた数々の選手も集まり有終の美を飾った。メインイベントはチャンピオン御堂対チャレンジャー大迫のJWA関西選手権試合、御堂を破った大迫がJWA関西最後の王者となった。全試合終了後、宮脇リングアナにより改めて活動停止がコールされ、ヒール・ベビーフェイス・運営スタッフ全員で観客を見送る。住吉公園体育館のロビーでは泣き崩れる女性ファンや、いつまでも選手達と交流しようとするファンでごったがえした。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「JWA関西」の詳細全文を読む




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