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ジェイ・Z(ジェイ・ズィー〔ジェイ・Z - CDJournal.com 〕〔“Z”の読み方について公式サイト等に記載はなく、日本では「ジー」と読まれる事も多いが、“Z”の読み方は日本語では「ズィー」もしくは「ゼッド」であり、「ジー」では間違いである。よって、本来は「ジェイ・ズィー」と読むのが正しい。「ジェイ・ゼッド」と読まれる事はあまりない。〕、英:Jay Z、英旧表記:Jay-Z、男性、1969年12月4日 - )は、アメリカ合衆国のラッパー、作詞家、作曲家、音楽プロデューサー。本名:ショーン・コーリー・カーター (Shawn Corey Carter)。元ロッカフェラ・レコード、ロッカウェア、デフ・ジャム・レコードのCEO。ブルックリン・ネッツの共同オーナー。現在は、ロック・ネイション、ロック・ネイション・スポーツ、スターロック、定額制音楽配信サービス「Tidal」のCEO。ナイトクラブチェーン40/40のオーナー。ニューヨーク州ニューヨーク市ブルックリン区ベッドフォード・スタイベサント地区出身。グラミー賞受賞者。MTVが選ぶ「世界的にもっとも偉大な輝きが衰えないラッパー」「世界的にもっとも頂点に君臨するラッパー」にも選ばれた。推定資産は500億円。妻は歌手のビヨンセ。2012年に長女のブルー・アイビーが生まれた。 「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100組のアーティスト」において第88位。 == 来歴 == ニューヨーク市ブルックリン区ベッドフォード・スタイベサント地区にあるマーシー団地 (Marcy Houses) にて生まれ育つ〔Jay-Z Biography - Allmusic〕。幼少の頃から生活苦から生活保護を受け11歳のときには父と別離となる。そんな恵まれない生活環境のなか同じ団地に住むラッパー、ハーズジャズメイカ&マイクゴンガーの影響を受けラップに目覚め始める。その後、単身ワシントンD.C.へと渡り、彼が尊敬、敬愛するビッグ・ダディ・ケインとツアーをする機会を勝ち得る(彼はJaz-O aka Big Jazのサイドラッパーをやっていたので彼のThe OriginatorsやHawain Sophie等で若かりし姿を見る事が出来る)が、さして成功には至らず生まれ故郷ブルックリン区に戻り、再び裏稼業へと身を投じることとなる。夢や希望が見出されず人生に自暴自棄になっていた26歳の時、至近距離から通り魔に拳銃で銃撃されたことが人生の転機となる。再度ラップに挑戦することとなり、遊び仲間のクラーク・ケントの紹介でデイモン・ダッシュと運命的に出会う(彼はSki aka Ski Beatzの在籍していたOriginal FlavorのBeyond FlavorにSauce Moneyとクレジットされていないが客演している。その時クラーク・ケントはOriginal Flavorのプロデュース、デイモン・ダッシュはマネージメントをしていた)。 意気投合した2人は、1996年に自主レーベルロッカフェラ・レコードを設立、大成功を収めた。 また、デフ・ジャム・レコードのCEOも兼ねていたが、2008年に自ら退任した。 3年間に渡る過酷な刑務所暮らし、3度に渡る銃撃戦を経験したことがあるというサグらしい一面も見せる。今は亡きノトーリアス・B.I.G.とは高校時代からの大親友であり、お互いの作品でその名が見ることができる。 クレジットはされていないが、Mic GeronimoのTime To BuildではJa Rule、DMXとも共演している。 2003年11月、『ザ・ブラック・アルバム』の発表と共にMCとしての引退を表明したが、リンキン・パークとのコラボレーションなどフィーチャリングでの友情共演は続いた。そして2006年、米音楽誌の独占、インタビューでヒップホップへの熱い情熱、再起に賭ける意気込みなどを語り復帰を認めた後『キングダム・カム』で復活を果たすこととなる。新たなハリウッドでの功績の幕開けである。 近年は単独ライブを年間200本はこなしており、若手のヒップホッパーからも慕われている。 長年遺恨関係にあったナズと2005年に突如として和解し、全世界のヒップホップシーンの話題となる。2005年10月27日、ニュージャージー州イースト・ラザフォードのコンチネンタル・エアラインズ・アリーナにて行なわれたラジオ局主催のチャリティーコンサートでは、「俺に刃向かうラッパーたちを、このステージ上で攻撃する」と宣言していたのだが、ライブが終盤に入ったころ、突然ジェイ・Zは大声を張り上げ「宣戦布告よりも大事なことがある。俺は行くぜ、エスコ(ナズの愛称)! 俺たちの伝説は終わらない!」とナズをステージに呼び寄せ、熱く抱擁。ナズは「多くの奴らが金儲けのためにひどいことをやっている。俺達は互いに助け合ってイーストコーストを救うんだ」と派手なマイクパフォーマンスを披露。それ以降、ナズはデフジャムに移籍する形となる。 米経済誌フォーブスによると2006年5月から2007年6月までの推定年収は8,300万ドル。世界歌手年収ランキングで1位のローリング・ストーンズ(8,800万ドル)に次ぐ2位につけた。 2008年6月28日、グラストンベリー・フェスティバルにヘッドライナーとして出演。オアシスのノエル・ギャラガーがロックの聖地でヒップホップ・アーティストがヘッドラインを務めることを批判したのを受け、ジェイ・Zはエレキギターを抱えてステージに登場。オアシスのヒット曲「Wonderwall」をカヴァーしたり、AC/DCの「Back In Black」のリフを使った「99 Problems」や、プロディジーの「Smac My Bitch Up」をサンプリングするなど、ロックファンにも応えるパフォーマンスを披露した。 このグラストンベリー出演を先鞭にして、翌年以降からは、ロスキルド、ワイヤレス、コーチェラやワイト島、ボナルーなどの巨大フェスを始め、日本のサマーソニックを含む世界各地のロック・フェスにてヘッドライナー出演を歴任するなど、ロック界隈にも大きな存在感をもって認知される。 シングルでは4曲のBillboard Hot 100ナンバーワンヒットを出しており、アルバムはBillboard 200にて11作がナンバーワンを記録している。11作のBillboard 200ナンバーワンは、全米ソロアーティスト歴代最多記録である〔Access Hollywood.http://omg.yahoo.com/news/jay-z-beats-elvis-for-no-1-albums-record/28019 2010年3月13日 観覧〕。 2009年、「オートチューンの死」という意味の楽曲「D.O.A. (Death of Autotune)」をシングルとして発表した。 2010年、U2のボノ、プロデューサーのスウィズ・ビーツらとリアーナ参加のハイチ支援曲を制作し、チャリティ番組「Hope For Haiti Now」に出演した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ジェイ・Z」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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