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J・リー・トンプソン(John Lee Thompson, 1914年8月1日 - 2002年8月30日)は、イギリス出身の映画監督。 == 来歴 == トンプソンはイギリスのブリストルに生まれた。ドーヴァー・カレッジに入学後、彼は余暇を利用して犯罪劇の脚本の執筆を始めた。彼の作による“''Double Error''”が1935年、ロンドンのウェストエンドで上演されたのがきっかけとなり、ブリティッシュ・インターナショナル・ピクチャーズの脚本家として雇われることとなった。この間、キャロル・リード監督の“''Midshipman Easy''”(1935年)に出演したり、アルフレッド・ヒッチコック監督の『巌窟の野獣』(''Jamaica Inn'' 1939年)の脚本顧問を務めた。 第二次世界大戦に従軍後、トンプソンは再び脚本家としてアソシエイテッド・ブリティッシュ・ピクチャー・コーポレーションで働くこととなった。1950年、彼はついに“''Murder Without Crime''”で映画監督デビューを果たす。しかし、この作品は無視されたといっていいほど誰からも評価されず、彼の監督作で最初に注目されたのは1953年の“''The Yellow Balloon''”であった。1954年の“''The Weak and the Wicked''”はジョーン・ヘンリーによる回顧録に基づいた作品であり、彼女は後にトンプソンの二番目の妻となった。 1950年代中期はサスペンス、コメディ、ミュージカル、社会派ドラマなど数多くのジャンルで演出を担当し、彼はしだいにイギリスで大きな評判をとるようになっていった。 そしてアレクサンダー・マッケンドリック監督の後任となって、メジャースタジオ製作のA級アクション大作『ナバロンの要塞』(''The guns of Navarone'' 1961年)を発表し、彼はハリウッドでも名声を得ることとなった。同作でトンプソンは第34回アカデミー監督賞にノミネートされ、作品自体も作品賞にノミネート。また大ヒットして低迷期にあったグレゴリー・ペックの復活作となるなど大きな話題となった。 ペックとは『恐怖の岬』(''Cape Fear'' 1962年)、『マッケンナの黄金』(''Mackenna's Gold'' 1969年)、『0の決死圏』(''The Chairman'' 1969年)でも組んでいる。 『ナバロンの要塞』の後もアクション(『マッケンナの黄金』)、サスペンス(『恐怖の岬』)、史劇(『隊長ブーリバ』)といったさまざまなジャンルの作品を発表した。1970年代以降は『猿の惑星・征服』(''Conqest of the Planet of the Apes'' 1972年)や『誕生日はもう来ない』(''Happy Birthday to Me'' 1981年)といった、中規模のB級作品を手がけるようになったが、評価・興行成績ともに不振に終るものが多くなった。1980年代はチャールズ・ブロンソンと組みアクション映画を多数、監督したが、1989年の『禁じ手』(''Kinjite:Forbidden Subjects'')を最後に監督業から引退した。この晩年期のヒット作には全米初登場4位を記録した、チャック・ノリスとルイス・ゴセット・ジュニア競演のバディ・ムービー『ファイアーウォーカー』(''Firewalker'' 1986年) がある。 監督引退後もプロデューサーや技術顧問として映画製作に関わり続け、2002年8月30日にカナダで休暇中に鬱血性心不全で倒れる。88歳という高齢で天寿を全うした。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「J・リー・トンプソン」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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