|
ミラン・ラスチスラウ・シュテファーニク空港(スロバキア語:Letisko Milana Rastislava Štefánika、英語:Milan Rastislav Štefánik Airport)は、スロバキアの首都ブラチスラヴァ市にある国際空港。旧称はブラスチラヴァ・イヴァンカ空港(Letisko Bratislava - Ivanka)で、ブラチスラヴァ空港(Letisko Bratislava / Bratislava Airport)とも呼ばれる。 == 概要 == 空港名は第一次世界大戦時のスロバキア人軍人で、1919年にブラチスラヴァ近郊で搭乗のイタリア軍機が墜落して死亡したミラン・ラスチスラウ・シュテファーニクにちなむ。空港ターミナルはブラチスラヴァ中心部から北東9キロメートルのブラチスラヴァ2区ルジノフ街区にある。空港区域はルジノフ街区、ウラクニャ街区および両街区に隣接するセネツ郡イヴァンカ・プリ・ドゥナイ村、モスト・プリ・ブラチスラヴェ村にまたがり、区域面積は4.77平方キロメートル。M・R・シュテファーニク空港=エアポート・ブラチスラヴァ株式会社(BTS, Letisko M. R. Štefánika - Airport Bratislava, a.s.)が運営する。空港から1時間圏内にウィーン(オーストリア)、ブルノ(チェコ)、ジェール(ハンガリー)の各都市を擁する。 現空港から3キロ北方のヴァイノリ街区にあった旧ブラチスラヴァ・ヴァイノリ飛行場(Letisko Bratislava-Vajnory)を前身とし、1923年10月29日にチェコスロバキア国営航空(ČSA)のアエロA-14型機によるチェコスロバキア初の民間定期航空路線(プラハ - ブラチスラヴァ)が就航した。プラハ発の初便はČSAのカレル・ブラベネツ(Karel Brabenec)が操縦し、乗客は新聞記者のヴァーツラフ・ケーニッヒ(Václav König)1人だった。ヴァイノリ飛行場にはのちウィーンやクルージュ=ナポカ(ルーマニア)、ブカレストへの国際線も就航した。 第二次世界大戦後の1947年、ヴァイノリ飛行場に代わる現空港の建設が計画され、1948年に着工。04-22番滑走路(長さ1,900メートル)と13-31番滑走路(同1,500メートル)の直交する2本の滑走路を持つブラチスラヴァ・イヴァンカ空港(Letisko Bratislava - Ivanka)として1951年に完成した。1970年に新しいAターミナルが完成し、同年5月にはイリューシンIl-62型機によるČSAのブラチスラヴァ - プラハ - アムステルダム - ニューヨーク線が就航した。さらに1980年代末に拡張工事が行われ、04-22番滑走路を2,900メートルに、13-31番滑走路を2,950メートルに延長した。 チェコスロバキアの連邦制解消後はスロバキア空港公社(Slovenská správa letísk)が運営し、1993年7月21日に現名称のミラン・ラスチスラウ・シュテファーニク空港に改称。1994年にBターミナルの運用を開始した。1997年には13-31番滑走路をICAOのILSカテゴリーIIIAに適合させる改修が行われ、同滑走路を3,190メートルに延長。1998年3月に新管制塔の運用を開始した。 運営機関のスロバキア空港公社は2004年5月5日に株式会社化され、M・R・シュテファーニク空港=エアポート・ブラチスラヴァ株式会社に改組された。スロバキアのシェンゲン協定加盟にともない、2006年6月にシェンゲン圏諸国発の国際線用に設けられた到着専用Cターミナルの運用を開始した。 空港利用客数は、1990年代にはわずか55キロしか離れていないウィーン国際空港との競合で減少したが、その後スカイヨーロッパ航空など国内航空各社の路線網拡大にともない、2007年には年間200万人を突破し、2008年には221万8545人に達した。老朽化と利用客の急増に対応するため、旧Aターミナルに代わる新Aターミナルが建設され、2012年に全面供用を開始した。 空港会社は新Aターミナルの完成で年間500万人の利用が可能になると見込んだが、世界的な不況の影響で、本空港を拠点空港とするスカイヨーロッパ航空、シーグル・エアー、エア・スロバキアの国内航空大手が2009年以降相次いで倒産したことから、年間利用客数は100万人台にとどまっていて、当初構想と異なり空港ターミナル機能のほとんどをAターミナルに集約して運用している。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ブラチスラヴァ空港」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Bratislava Airport 」があります。 スポンサード リンク
|