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ロラパルーザ(Lollapalooza)はアメリカ合衆国で開催されるロック・フェスティバル。オルタナティヴ・ロック、パンクロック、ヒップホップなど様々なジャンルのミュージシャンが公演するほかダンスパフォーマンスやコメディなどの公演も行う。1991年にジェーンズ・アディクションのボーカル、ペリー・ファレルが組織したロラパルーザは北米各地をツアーする形態をとったロックフェスティバルで、オルタナティブ・ミュージックの隆盛に伴い1990年代のアメリカの若者文化の重要な一部を担う存在となった。 1997年でいったん終了した後、2003年に復活したが、チケットの売り上げが思わしくなかったこともあり2004年は開催されなかった。2005年以降、テキサス州オースティンに本拠をおくキャピタル・スポーツ・エンタテインメントが運営を行い、シカゴ都心の大規模公園グラント・パークを毎年の会場とする週末開催型の野外フェスティバルに変更された。 == 経緯 == ペリー・ファレルは1990年、ジェーンズ・アディクションの解散にあたり、単独の全米解散ツアーの代わりに多くのバンドとともに全米を回る「ロラパルーザ・フェスティバル」の開催を考えた。「ロラパルーザ」は「傑出した、普通でないもの」という意味の言葉で、ファレルは短編コメディ映画『三ばか大将』(Three Stooges)シリーズの一編でその言葉を知り、語感が気に入ったのでフェスティバルの名称に採用した。 これに先立つ1990年の夏、「ギャザリング・オブ・ザ・トライブス」(A Gathering of the Tribes)がカリフォルニア州のサンノゼとロサンゼルスの二か所を舞台に開催された。二日間のコンサートは伝説的なプロモーターのビル・グラハムと、「ザ・カルト」のリードシンガー、イアン・アストベリーが組んで行われたもので、イギー・ポップ、サウンドガーデン、クイーン・ラティファ、ザ・クランプス、インディゴ・ガールズ、レニー・クラヴィッツ、ジョーン・バエズ、スティーヴ・ジョーンズ(元セックス・ピストルズ)、パブリック・エナミーらヒップホップやロックなどのミュージシャンが参加し、成功裏に終わった。このコンサートは異なったジャンルのミュージシャンの混ざり合ったフェスティバルの可能性や、オルタナティヴ・ミュージックの市場の可能性を指し示したものだった。ペリー・ファレルもロサンゼルスのコンサートに一観客として参加しており、こうしたさまざまなミュージシャンを集めた移動型フェスティバルの全国版があってしかるべきだと考えた。 ロラパルーザはかつてのウッドストック・フェスティバルやギャザリング・オブ・ザ・トライブスとは異なり、単発のフェスティバルでなく毎年開催されるもので、しかもアメリカからカナダにかけての多くの都市を数ヶ月かけて巡回するフェスティバルだった。こうした先鋭的なミュージシャンが参加するフェスティバルが東海岸や西海岸の大都市近郊だけではなく、中西部や南部など内陸部の地方都市へも巡回したことは、アメリカにおける1990年代のオルタナティブ・ミュージックの活性化に一役買ったといえる。 1991年の第一回は、ラッパーのアイス・Tからインダストリアルのナイン・インチ・ネイルズまでがヘッドライナーとして参加するジャンル横断的な顔ぶれであり、音楽産業からの独立の雰囲気に満ちていた。ロラパルーザのもう一つの要点は音楽以外のサブカルチャーを多く取り上げたことであり、フリークショーのジム・ローズ・サーカスからポエトリー・リーディング、少林寺の武僧までがパフォーマンスを見せた。また会場にはテントが立ち、その中には政治や環境問題などのNPOの窓口、イラストや美術作品・工芸品などの展覧会、ビデオゲームのコーナーなどが設けられ、1990年代のカウンターカルチャーが集まる総合的な文化イベントの様相を呈した。 1991年よりあとからはメインステージのほかにセカンドステージが、さらに1996年からはサードステージが設けられ、新進のバンドや現地のバンドがセカンドステージなどで公演を行った。こうした小さなステージで公演を行うアンダーグラウンドのバンドからもメインストリームへ躍り出るバンドが出現し、ロラパルーザは未知数のバンドが全米に名を知られるきっかけを多く作った。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ロラパルーザ」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Lollapalooza 」があります。 スポンサード リンク
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