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M3中戦車(-ちゅうせんしゃ、英語:Medium Tank M3)とは、第二次世界大戦中にアメリカで製造された戦車である。 グラント及びリーという2つの愛称はいずれもイギリス軍でのもの。イギリス向けの仕様で生産されたものを南北戦争時の北軍将軍ユリシーズ・S・グラントの名をとってジェネラル・グラント、アメリカ陸軍向けの仕様のままでイギリス軍に配備されたものを南軍の将軍ロバート・E・リーの名をとってジェネラル・リーという。 == 開発の経緯 == 1939年9月の第二次世界大戦勃発からヨーロッパを電撃戦で席捲したドイツ軍機甲部隊は、主砲に50mm砲あるいは75mm榴弾砲を装備したIII号戦車やIV号戦車を投入しており、37mm砲と機関銃8挺を搭載した歩兵部隊用に開発された戦車に過ぎないM2中戦車の劣勢は明らかであった。その時点でアメリカ軍が装備していた装甲車両は約400輌で、その大部分はM1軽戦車とM2軽戦車を主体としており、数十輌のM2中戦車とM2A1中戦車が残りを占めていた。 1940年6月にフランスが敗北すると、アメリカ陸軍では戦車部隊を発足させる計画が開始された。それまで別々だった歩兵戦車隊と騎兵機械化部隊の統合が行われた。 議会では中戦車1,500輌分の予算が承認され、1940年8月15日に、1年以内にM2A1中戦車を1,000輌生産する計画がクライスラー社と契約された。しかし次期中戦車は装甲を強化した上で 75 mm 砲を搭載することが決定され、この計画は直ちに書き換えられた。1940年8月28日のクライスラー社との契約で、M2A1中戦車に替わり新型のM3中戦車を生産することとなった。 アドナ・チャーフィー大将と兵器局の会談で、75mm砲を搭載可能な大型砲塔、砲塔リングなどを早急に設計するには兵器局は経験不足であるという警告がなされ、実際に量産可能なレベルには至っていなかった。そこで、大型砲塔が開発されるまでの繋ぎとして、T5中戦車の車体前面右側に75mm軽榴弾砲を装備するテストを行っていたT5E2中戦車の設計がM3中戦車に継承された。 その結果としてM3中戦車は、車体右側スポンソン(張り出し)部のケースメート(砲郭)式砲座に31口径 M2 75mm砲が備え付けられ、上部に37mm砲を搭載した全周旋回砲塔と車長用の7.62mm機関銃塔が追加された、変則的な形の戦車として完成した。1941年1月に先行試作型が完成し、1941年4月から生産が開始された。車体の基本構成は共にT5中戦車を範とするM2A1中戦車とほぼ同じで、垂直渦巻きスプリング・ボギー式(VVSS)の足回りや、コンチネンタル社製の空冷星形9気筒ガソリンエンジンを搭載している点などは、1942年2月より量産開始されたM4中戦車にもそのまま引き継がれることとなった。砲郭以外にもドライブシャフトが戦闘室内を貫通し、操縦手は変速機の上にシートを設けて座るなど、急造品ゆえの洗練されてない箇所も見られる。第二次世界大戦参戦前でありながらも大量生産が開始され、イギリス軍へ供与されると共にアメリカ軍への配備が進められた。 新機軸として、75mm・37mm 砲ともにウェスチングハウス社製のスペリー式ジャイロスタビライザー(砲安定装置)が装備された。試作車で取り付けられたものだが、トラブルが多発したため初期量産型では搭載されなかった。これは現代のように高精度の走行間射撃が可能なものではなく、走行しながら目標に対し砲を素早く指向することができる程度で、扱いが面倒であるとして使用しない兵も多かった。なお砲郭内に装備された75mm砲はルノーB1同様、上下にしか砲身が動かないとの誤解も多いが、左右15°程度なら射角変更も可能である。 1941年4月の生産開始から1942年12月の生産終了までに全型合計6,258輛が生産され、砲塔を積み上げたために車高が高く、75mm砲をダッグインして使用不可能などの不利があるものの、M4戦車配備までのストップギャップとしての役割は充分に果たしている。 戦訓によってウィークポイントだった車体側面ハッチの廃止。より長砲身の40口径 M3 75mm戦車砲(M4戦車の主砲と同じ砲)を搭載する等の改良も随時行われている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「M3中戦車」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 M3 Lee 」があります。 スポンサード リンク
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