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MASAYA : ウィキペディア日本語版
MASAYA[まさや]

MASAYA(マサヤ、1957年12月13日 - )は、東京都港区元麻布出身の作詞作曲家ヴォーカリストプロデューサー、実業家。
== 来歴 ==
1957年12月13日東京都港区元麻布で、法務省(後、東京地検)勤務の父親の一人息子として生まれる〔。小学四年生で芸能界に入り〔、小学六年生のとき、アニメのイメージソング「荒野の少年イサム」(長嶋とおる・クラウン少年合唱隊名義)でデビュー〔「コーヒータイムin福岡=MASAYA、新作発表」、西日本新聞 夕刊、1995年6月19日、9頁。〕。その後、「高校一年生」等を歌うがヒットに恵まれず、「倉渕雅也」の名前で作詞家・作曲家として活動する〔。在籍していた堀越学園芸能コース(現トレイトコース)を中退し、明大付属中野高校に転入して卒業〔「ミサワリゾート取締役倉渕雅也氏―元アイドル歌手 リゾート事業と(ひと・ポスト)」、日経産業新聞、1989年11月1日、30ページ。〕。
1970年代後半から80年代前半において、学生のイベント系サークル「六本木トッププレーヤーズコネクション」の代表として一世を風靡し、企業のイベント企画でディスコに大量動員するビジネスで利ざやを稼ぎ、大成功した〔「晩夏の特別警報 「骨肉の独立戦争」全情報 安室奈美恵に何が起きたか! 内幕スクープ」、サンデー毎日、第93巻第37号、2014年8月31日、16-27頁。〕。さらに19歳の時に仲間と学生ツアー事業を始め、「ナッツベリー」「オレンジペコ」などの大手を合併する〔「[明日の顔](110)倉渕雅也 リゾート事業に壮大な発想(連載)」、読売新聞 東京夕刊、1989年5月30日、1頁。〕〔。その後、日航ジャンボを3台借りて芸能人と学生を一緒にする旅行を計画するも人数が集まらず、ジャンボ1台のみの旅行となって失敗した〔。しかしその企画力を日本航空に評価され、日本航空資本による会社「GYRO」(ジャイロ)を設立し、代表取締役となった〔。次々と事業を立ち上げるが、ディスコと旅行代理店の複合店舗を企画したところ不謹慎と言われたのでGYROを離れる〔。1984年2月、エヌ・エス・オージャパン(略称:NSOジャパン)を設立した〔「起業(中)ゆとり派“坊ちゃんVB(現場報告新企業人)」、日経産業新聞、1986年2月25日、1ページ。〕。
1981年8月公開の映画『無力の王』(高樹澪柄沢次郎主演)に「倉渕雅也」名義で出演し、3番目にクレジットされた。
NSOジャパンでは六本木にディスコ「クレオパラッツィ」を営業し、特に外国人に人気のディスコとなった〔「ディスコFCを展開、エヌ・エス・オージャパン」、日本経済新聞、1986年4月14日、13ページ。〕。さらにカフェバーレストランなど合計8店舗を経営した〔。
1985年7月、約20億円をかけて与論島に療養型レジャーランドプリシアリゾートヨロンを設立した〔。12月には施設を増強〔「与論島のレジャーランド増強、エヌ・エス・オージャパン」、日経流通新聞、1985年12月9日、19ページ。〕。
1986年1月、NSOジャパンはパスコ と提携し、倉渕はパスコ全額出資の新会社「パシフィックリゾート」の専務となり、新会社はプリシアリゾートヨロンの具体的な運営に参加した〔「パスコレジャー開発事業へ新会社、NSOジャパンと提携、不動産伸び悩みで」、日経流通新聞、1986年1月30日、19ページ。〕。
1986年春より六本木周辺で三店経営していたディスコ「クレオパラッツィ」をフランチャイズ化し〔「エヌ・エス・オージャパングループ、高級ディスコFCへ」、日経流通新聞、1986年2月10日、17ページ。〕、パシフィックリゾートの出資によって1号店を那覇市に開店した〔「ディスコをFC展開、エヌ・エス・オージャパン」、日本経済新聞、1986年4月14日、13ページ。〕〔「エヌ・エス・オージャパン、那覇にディスコFC1号店―宅地販売にも進出」、日経流通新聞、1986年4月21日、19ページ。〕。
1986年7月、日本航空が子会社の国内旅行開発を通じてエヌ・エス・オージャパンに資本参加し、業務提携する〔「日本航空、中高年向け保養地開発」、日本経済新聞 朝刊、1986年7月9日、13ページ。〕〔「NSOジャパン、日航と組み運営―与論島のレジャー開発」、日経流通新聞、1986年7月17日、19ページ。〕。
1987年2月、倉渕が社長を務め、与論島でリゾート開発を手掛ける倉渕開発計画にミサワホーム、日本航空などが資本提供し、資本金が9800万円から5億円に増強〔「倉渕開発計画、与論島リゾートを充実」、日経産業新聞、1987年1月10日、8ページ。〕。プリシアリゾートヨロンのコテージを増設するとともに、双発機を購入し、客の輸送を始めた〔。またリゾート事業に力を入れるため、ディスコからは撤退した〔。
倉渕は同島を舞台にした映画『スターダストーリー 星砂物語』を企画制作し、1987年4月24日に劇場公開した〔。しかし映画評論家の寺脇研は、全編加山雄三の詩が流れ、若大将シリーズを意識した懐古趣味の作品で、大時代的な古臭い作品と断じている〔寺脇研「日本映画批評 スターダスト・ストーリー 星砂物語」、『キネマ旬報』1987年6月下旬号、No.962、156-157頁、1987年〕。
プリシアリゾートは年商60億円の企業となった〔が、過剰投資がたたって1987年8月、プリシアリゾートをミサワホームに約45億円で売却し、ミサワホームは買収したばかりの日本エタニットパイプに委譲するとともに倉渕は日本エタニットパイプのリゾート担当役員として迎えられた〔「ミサワホーム、リゾート本格参入―与論島の施設を買収」、日本経済新聞 朝刊、1987年8月8日、9ページ。〕〔「ミサワホーム、M&Aで事業基盤拡大―新しい生活空間創る(戦略研究)」、日経産業新聞、1987年9月4日、26ページ。〕〔。当時29歳で東証一部上場会社の役員に就任したのは史上最年少であり、話題となった〔。後に日本エタニットパイプはミサワリゾートと社名を変え、倉渕はリゾートプロデュースを行った〔。
老子の本を読んで、ようやく目が覚めた」と本人は自由に生きようと決め〔「元アイドル歌手から青年実業家、ヒーリングミュージシャン。来熊のMASAYAに聞く。「好きな道を」」、熊本日日新聞 夕刊、1995年8月18日、7頁。〕、1990年、独立して癒やしをテーマにした事業を立ち上げた〔。セラピーを受けた体験から、ヒーリングミュージックへの道を歩み始める〔。
1993年6月28日、実質的なオーナーとして鹿児島県屋久町にレムリアアイランドレコードを設立する〔「元X JAPANのTOSHI 自己啓発セミナーに心酔1年 今の自分が本当」、日刊スポーツ、1998年9月16日、27頁〕。後に屋久島に、エコロジカルヒーリングリゾートを創設した〔。
1995年5月、MASAYAとしてファーストアルバム『遥かなる道』をリリースした〔〔。さらに8月には2枚目のアルバム『遙かなる命のうた』をリリースする〔。音楽はテレビやラジオのBGMに多く使われ〔、ヒーリングブームの先駆者となった〔「栃木の児相、子供5人を保護 ○○○○ 実質的主宰者は元アイドル」、産経新聞 東京朝刊、2004年4月9日、29頁。〕。
1998年7月23日、前年にX JAPANを解散したTOSHIへシングル『君はいないか』を提供し、テイチクエンタテイメントから発売された〔。
1998年秋にレムリアアイランドレコードへ移籍したTOSHIの移籍第1段となり、1999年2月25日に発売されたシングル『愛の詩をうたいたい』のプロデュースを行った〔「Toshiがレムリアアイランドレコードに移籍、一から出直し」、スポーツ報知、1999年2月24日、27頁。〕〔「TOSHI あす発売の新曲「愛の詩をうたいたい」を発表会で熱唱」、日刊スポーツ、1999年2月24日、22頁。〕。この移籍に伴い、TOSHIへ、癒やし系のヒーリングミュージックのプロデュースを行う。
2009年、TOSHIが肋間神経痛で長期療養したときは、代わりにコンサートや講演会を行った〔「X JAPANのTOSHIが肋間神経痛で声出ず長期療養」、スポーツ報知、2009年10月31日、27頁。〕。
2010年1月、TOSHIは、MASAYAとの決別会見を行い、X JAPANに復帰する。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「MASAYA」の詳細全文を読む




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