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MPi-Kとは、ドイツ民主共和国(東ドイツ)でライセンス生産されたAK-47である。その名称は ''Maschinenpistole K'' の略で、「カラシニコフ型短機関銃」を意味する。ドイツ民主共和国では、ナチス・ドイツ時代に造られた突撃銃(Sturmgewehr)の語は使用されなかった。 == 概要 == 第二次世界大戦後、東ドイツにおける再軍備は兵営人民警察と称される準軍事組織から始まった。当初、兵営人民警察では在独ソ連軍から供与されたモシン・ナガン小銃やPPSh-41短機関銃、あるいは旧軍から接収されたKar98k小銃やStG44突撃銃などが配備されていた。1956年、兵営人民警察は国軍たる国家人民軍に改組される。1957年、国家人民軍はソビエト連邦製のAK-47突撃銃を制式小銃として採用し、この2年後にはライセンス生産が開始された。生産は主にズール県のエルンスト・テールマン工場にて行われた。 東ドイツ製AKの独自の特徴としては次のようなものが挙げられる。 *タンジェントサイトの射程距離が、ソ連製のAKM以降は1000mまで対応しているが、東ドイツ製AKではAK-74に相当するMPi-AK-74が登場するまでは、一貫して800mまでの対応となっていた。 *木部に使われる材料は、合板ではなく、ブナを使用した単材であった。 *軍の運用思想により、銃床内部にクリーニングキットを収納するスペースがなく、MPi-K初期生産型に至っては銃身下に収めるクリーニングロッド(洗い矢)すら付属しなかった。クリーニングキットは、RG-57クリーニングキット(Reinigungsgerät RG-57)として別途配備されていた。 * スリング(負い紐)がソ連製より細く、取り付け方法も異なる。スリングスイベル(負い紐環)の形状も異なるため、ソ連製スリングを東ドイツ製AKに取り付けることは不可能。MPi-AK-74では、ソ連製と同形状のスリングが採用された。 *銃剣は、ソ連製と同じ改良が進められたが、グリップ(握り)と鞘の成形色は黒色である。 本家のAK-47と同様に多くの派生型が存在する。AKMに相当するMPi-KMより、ソ連のAKMに先駆けて銃床などに焦げ茶色のプラスチック樹脂製部品を本格的に取り入れている。 AKMSに相当するMPi-KMS-72では、折畳時にもセレクターの操作を邪魔しないように形状を工夫した、独自の側面折り畳み式銃床が採用された。この銃床は後にルーマニアやポーランドなどが国産化したカラシニコフ銃(AIMやタンタルなど)に模倣された。特に区別する場合、従来の下方折り畳み式銃床を「ロシアン・パターン」、東ドイツ製の側面折り畳み式銃床を「イースト・ジャーマン・パターン」などと呼ぶこともある。 MPi-AK-74は、ソ連製のAK-74に相当するモデルで、口径を5.45mm(使用弾薬5.45×39mm)に小口径化している。なお、国境警備隊では5.45mm口径の小銃を採用しなかった。これは5.45mm弾の殺傷力が国境警備活動において過剰であり、また弾頭が軽量であることから風や障害物の影響を受けて隣国領内に着弾する可能性が高いと判断された為である。 その後、更なる独自のAKが開発され、5.56x45mm NATO弾を使用するが誕生するに至っている。 東ドイツの警察組織や軍事組織が採用したほか、いくつかの国には輸出も行われた。東ドイツ崩壊後、MPi-Kなどの銃器を始めとする各種装備品及び物資はドイツ連邦軍(西ドイツ軍)が接収し、少数が研究や演習などの用途に用いられた。大多数のMPi-Kは統一ドイツ政府によって第三国へと売却された後、紛争地域などへ流出していった。''が誕生するに至っている。 東ドイツの警察組織や軍事組織が採用したほか、いくつかの国には輸出も行われた。東ドイツ崩壊後、MPi-Kなどの銃器を始めとする各種装備品及び物資はドイツ連邦軍(西ドイツ軍)が接収し、少数が研究や演習などの用途に用いられた。大多数のMPi-Kは統一ドイツ政府によって第三国へと売却された後、紛争地域などへ流出していった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「MPi-K」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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