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東京都交通局5500形電車(とうきょうとこうつうきょく5500がたでんしゃ)は、東京都交通局の路面電車(都電)車両である。 営業運転開始当初は「防振防音電車」と公式に呼ばれていた〔泉麻人『東京版アーカイブス 「あの頃のニュース発掘」』、朝日新聞社、2007年3月、PP44-46。〕〔「『音なし都電』がお目見え きのう芝浦-銀座間で試運転」、朝日新聞1953年11月17日付東京版〕(その他ベースになったアメリカの開発団体名から「PCCカー」とも呼ばれた)〔。 == 開発・製造経緯 == 第二次世界大戦後の混乱期から復興期にかけての時期、首都東京の市民の日常の足を担った東京都電では乗客の激増に対し、新たに設計された6000形の大量生産に加え、既存の3000・4000・4100・4200形といった木造車群の車体を6000形と準同型の設計で製作した半鋼製車体に載せ替える、2代目3000・4000形への鋼体化改造工事の推進によって対応していた。 これらの新車・改造車は全国の軌道事業者にそのデザインを模倣されるなど、戦後日本の路面電車設計において一つの規範となったものであった。だが、その技術水準は1930年代のレベルまでようやく回復したに過ぎず、世界的な目で見れば明らかに時代遅れの設計を踏襲したものに過ぎなかった。 日本がアメリカとの戦争を行っていた時期、アメリカではモータリゼーションによる自動車の台頭に危機感を覚えた電鉄経営者たちによってPCCカーと呼ばれるさまざまな新技術を採用した高性能路面電車が開発され、1936年以降、全米各地の路面電車などに採用されていた〔東京都交通局においても、1939年頃からPCCカーについての研究・資料収集を進めていたが、これは日米開戦により一旦中断された。〕。 本形式は日本の電車技術の水準向上を目指し、そのPCCカーの製造ライセンスを購入、当時のアメリカの最新技術を採り入れて製造した車両である。 PCCカーの都電への導入については当初、1953年初頭の段階ではアメリカでPCCカーの用主要機器を製造していたウェスティングハウス・エレクトリック(WH)社とゼネラル・エレクトリック(GE)社の2社で製造された機器を搭載したPCCカーを1両ずつ完成車として輸入する計画であった。だが、当時日本の工業界の復興状況を調査に訪れたアメリカ人技術者からPCCカーの国産は可能であるとの助言を得られたため、この計画を主導していた東京都交通局交通技術研究所は計画を変更してその国産化を決断した。こうして、東京都交通局を中心に、同局へ製品を納入していた車両・機器メーカー各社、それにPCCカーに重大な関心を抱いていた運輸省も参加してPCCカーの国産化のための委員会が結成され、当時PCCカー関連技術のライセンス供与を行っていたアメリカのTransit Research Corp.(TRC社:PCCカー開発委員会の後身)と日本国内の車両・機器メーカー各社との間で技術ライセンス契約が締結されることとなった。このPCCカーの国産化計画においては、委員会メンバーに戦前よりWH社のライセンシーであった三菱電機が参加していたこともあり、WH社仕様の機器を搭載する車両を日本国内で製造することとされた。 こうして、交通技術研究所主導でPCCカーの正規ライセンス契約に基づく国産化計画が推進されていたのと同時期に、これとは別に東京都交通局内で都電車両運用の実務を担っていた車両課でも、PCCカーに相当する防音台車と無装架駆動装置の研究が行われていた。同課は研究成果である試作機器の機能を確認するため、テストベッドとなる車両の製造を自らの予算裁量権の枠内で行うこととした。そこで、1952年度予算で50両の製造が計画・承認されていた6000形最終号車(6291)のための製造予算を流用して〔このため同年度に竣工した6000形は49両となっている。〕、三菱電機製の電装品、住友金属工業製の台車、日本車両製造東京支店(蕨工場)製の車体という構成で各メーカーに1両分の機器と車体を発注した。 だが、交通技術研究所のPCCカー国産化計画は、当時の日本で一般に用いられていた電鉄技術とはあまりに隔絶した高度技術の産物であるPCCカー用機器のライセンス生産に手間取り〔日米での運転や乗務員業務の違いにより、機器設置や取扱いなどが複雑になった事も一因となった。〕、対する車両課による6000形ベースの試作車も電装品と台車は早期に完成していたにもかかわらず、車体の製作が遅延するという状況に陥り、いずれも車両としての完成・就役開始が当初の計画より大きく遅れる見通しとなった。 これは東京都交通局自身の広報活動により画期的な新型電車の投入が事前に告知されて都民の期待が高まっていた中での遅延であり、1953年度内に新型車が投入できないことは都民の失望を招くと判断された。 そこで、東京都交通局はPCCカー国産化委員会のメンバーであったナニワ工機に国産PCCカー用車体と同様式の車体を1両分、別途製造させ、これに車体待ちであった車両課の試作車用機器を組み合わせることで、以下の通り1953年中の新型車投入を実施した〔なお、当初予定より遅れて完成した日本車両製造製試作車用車体については、後日三菱電機ではなく東洋電機製造で当初計画時と同等仕様の電装品を、住友金属工業で5502用と同じFS351台車をそれぞれ製作、6000形のラストナンバーとして6291となるべきところを機器の相違から形式を区分し、6500形6501として1954年に竣工している。〕。 * 5502 1953年11月21日竣工。ナニワ工機製 同車は本形式で最初に竣工したが、正規の国産PCCカーの製造が進められる中で暫定的に先行完成した車両であったことから、トップナンバーを正規のPCCカーへ譲って5502と付番されている〔なお、この5502はメーカー3社(三菱・住友・ナニワ)の頭文字をとって“MSN車”とも呼ばれた。〕。本車は都電初、日本でも国鉄キハ44000形(1952年:直角カルダン)、東武鉄道モハ5720形(1953年3月:直角カルダン)、京阪電気鉄道1800型(1953年7月:中空軸平行カルダンおよびWNドライブ)に次いで4形式目のカルダン駆動車である。 この5502に遅れること約半年、ようやく国産PCCカーが完成した。 * 5501 1954年5月29日竣工。ナニワ工機製 本形式は形式全体でPCCカーと呼ばれることもあり、さらに同時代の高性能車は大阪市電3001形(通称:無音電車)や名古屋市電1820形、土佐電鉄500形(都電6000形と同様の車体を持った純国産高性能車)などの路面電車のみならず、極端な場合、京阪1800系などの高速電車に至るまでPCCカーと呼ばれることすらあったが、日本国内における純正PCCカーはこの5501のみである。 しかし、5501はその先進的な機器が祟って故障が多く、また足踏みペダル操作など特殊な操作方法を求められたために乗務員からも不評を買った。そのため、本形式の増備車はPCCカーのライセンスを使用せず、5502を改良したものとすることとなり、以下の5両が製造された。 * 5503・5504 1955年11月竣工。ナニワ工機製 * 5505 - 5507 1955年12月竣工。ナニワ工機製 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「東京都交通局5500形電車」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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