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M・パテー商会 : ミニ英和和英辞書
M・パテー商会[えむ ぱてーしょうかい]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
: [しょう]
  1. (n,n-suf) quotient 
商会 : [しょうかい]
 【名詞】 1. firm 2. company 
: [かい]
  1. (n,n-suf,vs) meeting 2. assembly 3. party 4. association 5. club 

M・パテー商会 : ウィキペディア日本語版
M・パテー商会[えむ ぱてーしょうかい]
M・パテー商会(エム・パテーしょうかい、1906年7月4日 - 1912年9月1日 合併)は、かつて東京に存在した日本の映画会社。日本最古の映画会社のひとつであり、日活を構成する前身4社のうち1社として映画史にその名を残す。また、創業者の梅屋庄吉香港時代に親友となった孫文を資金的に支援していたことも知られている。
== 略歴・概要 ==
長崎の貿易商で、20代の1895年(明治28年)ころには香港島の金融街で写真館「梅屋照相館」を経営していた梅屋庄吉が、フランスパテー(Pathé)社の映画プリントをイギリス植民地シンガポールで入手、それを手に帰国して1906年(明治38年)7月4日に「M・パテー活動写真商会」を設立、京橋区の「新富座」で第1回興行を行ったのが同社の始まりである。
同会に撮影技師として岩岡巽は入社している。同年、同会は「M・パテー商会」に改組。このころ同社の「弁士養成所」に主任として入社したのが、当時活動弁士、のちの映画監督岩藤思雪であった〔『日本映画監督全集』(キネマ旬報社、1976年)の「岩藤思雪」の項(p.60)を参照。同項執筆は田中純一郎。〕。
当初は輸入物の作品を岩藤のようなスタッフが翻訳して活弁台本を作成、興行をしていたが〔、1908年(明治40年)には中村歌扇らの俳優を出演させた劇映画を製作し始める。同年、株式会社化〔筈見、p.13.〕。1909年(明治42年)、東京府豊多摩郡大久保百人町(現在の新宿区百人町)に撮影所をオープン、同年5月23日には岩藤の脚本・監督作『日本桜』が「第一文明館」で公開されている。同作は岩岡が撮影し、新派劇の俳優・関根達発が主演している。また同年、のちの映画監督の阪田重則が、15歳で同社に入社、巡回興行の映写係を経て、撮影所の撮影係となっている〔『日本映画監督全集』(キネマ旬報社、1976年)の「阪田重則」の項(p.187)を参照。同項執筆は田中純一郎。〕。このころ、同社が熊本での設立を支援した「熊本電気館」(Denkikan)は、移転や改築を経てはいるが、現存する最古の映画館である。
1911年(明治44年)には、同社の撮影技師田泉保直を南極に派遣し、白瀬矗率いる「第二次南極探検隊」に随行させて、ドキュメンタリー映画日本南極探検』を製作、翌1912年(大正元年)に公開している。
同年9月1日、福宝堂横田商会吉沢商店との4社合併で「日本活動写真株式会社」(日活)を設立した。梅屋の私邸の敷地内であった大久保撮影所はこのとき閉鎖されたが、のちに梅屋はM・カシー商会を立ち上げ、同撮影所を稼動することになる。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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