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オー・ヘンリー(O. Henry, 本名:William Sydney Porter, 1862年9月11日 - 1910年6月5日)は、アメリカの小説家。主に掌編小説、短編小説を得意とし、381編の作品を残した。市民の哀歓を描き出した短編が多く欧米ではサキと並んで短編の名手と呼ばれる。映画化されたものも少なくない。 == 生涯 == 米国のノースカロライナ州グリーンズボロで、医師アルジャーノン・シドニーの息子として生まれる。3歳の時に母親が亡くなり、教育者の叔母によって育てられた。本好きではあったが、15歳で学業を離れた。 知人のすすめにより1882年、テキサスに移り住み、薬剤師、ジャーナリスト、銀行の出納係などさまざまな職を転々として数年を過ごす。1884年、テキサスのオースティンに移り住んだ後、1887年にアトール・エステスと結婚。1894年に『The Rolling Stones』という諷刺週刊紙を刊行した。しかし、あまりうまくいかず、同誌は翌年4月に廃刊となり、『ヒューストン・ポスト』にコラムニスト兼記者として参加するようになった。 1896年、以前に働いていたオハイオ銀行の金を横領した疑いで起訴された。経営がうまくいっていなかった『The Rolling Stones』紙の運営費に回したと思われたのである。銀行側も周囲も好意的であったにもかかわらず、裁判が行われるオーストン行きの列車から降り、病気の妻と娘を残してニューオリンズへと逃亡した。1897年には、妻の危篤を聞きつけて家にもどった。保釈金をさらに納め、数ヶ月間は妻の看病に徹したが、甲斐なく同年7月25日に先立たれた。1898年2月7日に懲役8年の有罪判決を受ける。この横領の真相については、彼自身が何も語らなかったため、よくわかっていない。 服役前から掌編小説を書き始めていたが、この服役中にも多くの作品を密かに新聞社や雑誌社に送り、3作が服役期間中に出版された。刑務所での待遇は良く、獄中で薬剤師として働いていたため、監房ではなく刑務所病院で寝起きし、夜の外出許可まで出されていた。模範囚として減刑され、1901年7月24日には釈放となった。 釈放された後、娘と義父母が待つピッツバーグで新しい生活を始めた。『ピッツバーグ・ディスパッチ』紙のフリーランスの記者として働く一方で、作家活動を続けたのである。 その後、たった9か月で娘のいるピッツバーグを離れ、1902年にはニューヨークへと単身移り住んだ。当時すでにニューヨークは人口400万人を誇る大都市であり、作家としての売り込みもしやすかったからである。事実、このニューヨークで多くの作品を発表、出版し、中でも『ニューヨーク・ワールド』紙とは毎週1編の作品を掲載するという契約を取り付けている。 1904年、処女作『キャベツと王様』が出版され、1906年にも『四百万』が発表された。1905年、ヘンリーに宛てて一通の手紙が届き、それが縁で1907年11月27日、幼なじみのサラ・リンゼイ・コールマンと再婚。新居を構えると、娘のマーガレットを呼び寄せ、新しい生活を始めた。 しかし、過度の飲酒からこのころには体を壊しており、1908年には、家族はまたバラバラに生活をすることとなった。 1910年6月5日、主に過度の飲酒を原因とする肝硬変により、病院で生涯を閉じた。テキサス州オースティンにオー・ヘンリーハウスがある。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「オー・ヘンリー」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 O. Henry 」があります。 スポンサード リンク
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