|
===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ ー : [ちょうおん] (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
フィニアス・テイラー・バーナム(Phineas Taylor Barnum、1810年7月5日 - 1891年4月7日)は、アメリカ合衆国の興行師。その愉快な「ホラ話」(hoax)と、サーカス(後のリングリング・ブラザーズ・アンド・バーナム・アンド・ベイリー・サーカス)を設立したこととで、最も良く知られている。 == 生涯 == P・T・バーナムは、コネチカット州ベサルで生まれた。彼の父は、宿屋兼商店の主人だった。 バーナムは、商店主として出発したが、当時アメリカで猖獗を極めていた宝くじブームに浮かれ、事業に失敗する。 その後、彼は1829年にダンバリィにおいて週間新聞『ザ・ヘラルド・オブ・フリーダム』を創刊した。この新聞での数件の名誉毀損訴訟及び一件の訴追を受けた結果、彼は収監されることとなった。 その後1834年にニューヨーク市に移り住み、1835年に、ジョージ・ワシントンの元乳母で160歳を超えているとの評判があった黒人奴隷の女性、ジョイス・ヘス(Joice Heth)を買い取って見世物にすることで、興行師としての人生を始めた。 この女性自身の存在とちょっとした付け足しをもとに、P・T・バーナムは、非常に巧妙な宣伝を行って、1836年のジョイス・ヘスの死亡(その際、彼女の年齢は70歳を超えないことが判った)後の1839年までアメリカにおける巡業を成功させた。 その後一時期不振だったが、1841年に、ニューヨーク市にあった「スカダーのアメリカ博物館」を買い取り、これに相当の補強をして「バーナムのアメリカ博物館」(Barnum's American Museum)と名付け、ここを拠点に国内で最も人気がある興行の一つにした。 1842年には、「親指トム将軍」 ("General Tom Thumb" ) として有名な矮人・チャールズ・ストラットンの見世物で大当たりをとった。インディアンのダンス団「フー・フム・ミー」を作って彼らに伝統的なダンスを踊らせ、これも評判となった。 1844年から45年にかけて、バーナムは、「親指トム将軍」を連れてヨーロッパ巡業を行ない、ヴィクトリア女王にも面会した。 彼が立てた注目すべき企画の一例としては、スウェーデンの女性歌手・ジェニー・リンドと、米国において一晩1000ドルで150公演行う(費用は全額興行主もち)と云う契約をしたことがあげられる。この巡業は1850年に始まった。 バーナムは、1855年にいったん興行界から引退したが、債権支払いを迫られたため、1857年に興行師・展示館経営者としての以前の人生を再開した。 1871年には、彼はニューヨーク市ブルックリンの「バーナムのアメリカ博物館」で、サーカス・動物園・フリークス・蝋人形展示をない交ぜにしたものを巡業させる「地上最大のショウ」を設立した。 1872年、サーカス業界初の興業列車を立ち上げる。サーカス団の規模拡大に伴い、馬車での移動では全米中の興行が困難となり、その解決策として発案。以来このサーカス列車は、他のサーカス団でも採用された。 1881年、彼は、ジェームズ・ベイリーが経営していた「クーパー・アンド・ベイリー・サーカス」と合併して、「バーナム・アンド・ベイリー・サーカス」とし、世界中を巡業した。このサーカスの一番の呼び物は、バーナムがロンドン動物園から買い取ったアフリカ象のジャンボだった。 P・T・バーナムの死後、1909年(あるいは、1907年? )に、彼のサーカスはリングリング兄弟 (Ringling Brothers) に売却され、リングリング・ブラザーズ・アンド・バーナム・アンド・ベイリー・サーカスとなった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「P・T・バーナム」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|