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R・L・スティーヴンスン : ミニ英和和英辞書
R・L・スティーヴンスン[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

R・L・スティーヴンスン ( リダイレクト:ロバート・ルイス・スティーヴンソン ) : ウィキペディア日本語版
ロバート・ルイス・スティーヴンソン[ちょうおん]

ロバート・ルイス・バルフォア・スティーヴンソン(Robert Louis Balfour Stevenson、1850年11月13日 - 1894年12月3日)は、イギリススコットランドエディンバラ生まれの小説家冒険小説作家、詩人、エッセイストである。弁護士の資格も持っていた。「スティーヴンスン」「スティーブンスン」とも表記される。
== 生涯 ==
父トーマス、祖父ロバートは共に灯台建設を専門とする建築技術者だった〔代々、灯台関係者でベラ・バサースト(Bella Bathurst)は"The Lighthouse Stevensons"というノンフィクションを書いていて200年にサマセット・モーム賞を受賞している。〕。母がマーガレット・バルフォア。彼もエディンバラ大学の土木工学科に入学するが、のち法科に転科、弁護士になる。18歳の時、名前の間に入っていたバルフォアを外し、セカンドネームの「Lewis」を「Louis」に変更。以後、名前を略称するときはRLSと名乗る。生まれつき病弱で、各地を転地療養しながら作品を創作した。
処女作1876年の紀行文『内陸の旅人(内地の旅人)』、続いて1878年に『驢馬の旅』を執筆する。その後は『ヴァージニバス・ピュエリスケ』、『わが親しめる人と書物』の二つのエッセイを執筆した。
1877年パリで後に妻となるファニー・オズボーンと出会う。オズボーンは既婚で2人の子どもがいたが、1879年に夫が病気を患い、離婚した。スティーヴンスンはサンフランシスコに向かい、結婚した。2人の子どもとオズボーンを連れてイギリスに帰り、その後は精力的に創作に取り組んだ。
1882年新アラビア夜話』を出版した。同年、フランスに家を買ったが、父の病気が悪化したのでボーンマスに移り住んだ。1883年宝島』を出版、1885年『プリンス・オットー』を出版、1886年『誘拐されて』を出版、同年にはまた代表作の一つである『ジキル博士とハイド氏』を出版した。
1887年父が死亡したのを機に、妻子と共にアメリカへ移住する。
出版者スクリブナーズの依頼で取材した南太平洋の島々が自身の健康にすぐれていると思い、サモア諸島中のウポル島に移住し、残りの生涯をそこですごした。彼は島人に「ツシタラ(語り部)」として好かれ、自らも島の争いを調停するなどの仕事をした。島での生活中は健康に恵まれ、多くの作品を発表した。だが1894年12月4日に発作を起こし、2時間後に死亡した。
没後、バエア山山頂に葬られ、彼の邸宅は現在も「ロバート・ルイス・スティーヴンソン博物館」として利用されている。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ロバート・ルイス・スティーヴンソン」の詳細全文を読む




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