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TRS-80は、1970年代終盤から1980年代初めにタンディ・コーポレーションが製造し同社のラジオシャック店で販売したマイクロコンピュータのいくつかのシリーズのブランド名である。1977年11月に出荷が始まり、同年12月のクリスマス前には各店舗に並んだ。ホビーストや一般家庭やスモールビジネス分野で人気となった。バイト誌が "1977 Trinity"(アップル、コモドール、タンディの3社)と呼んだ中でもタンディは首位であったが、その背景には3,000店以上のラジオシャックを通してコンピュータを販売していたという事実がある。最初のTRS-80は、QWERTY配列のフルストロークのキーボードを備え、小型であり、浮動小数点数をサポートしたBASICプログラミング言語を内蔵し、モニターが付属して600ドルで発売された。リリース前の予約価格は500ドルで、事前に手付金として50ドルを渡しておき、商品受け渡し時に手付金を返還する方式だった。最初のシステムの最大の欠点は非常に電波干渉(RFI)が強いことで、AMラジオをコンピュータの隣に置いて電波干渉をゲームの効果音に使うことがあったほどである。FCCは電波干渉についての規制を厳しくし、そのため Model I の代替として Model III がリリースされることになった。 == Model I == === 歴史 === 1970年代中ごろ、ラジオシャックはアメリカでも成功している電器店チェーンだった。同社の仕入れ担当だったドン・フレンチはコンピュータキットの MITS Altair を買い、その後自分でもコンピュータの設計を行い、製造担当副社長ジョン・V・ローチにそれを見せた。ローチは感銘を受けなかったが、ラジオシャックはナショナル セミコンダクターのスティーブ・レイニンガーを雇い、フレンチの設計を評価させ、1976年6月にコンピュータ開発に取り組むことになった。同社はキットでの販売を考えていたが、初期のコンピュータショップである Byte Shop で働いたこともあるレイニンガーは「はんだ付けできる人は非常に少ない」と主張して説得にあたり、組み立て済みのコンピュータを販売することを勧めた〔。 社内にはマイクロコンピュータの発売に反対する声もあったが、一時期ラジオシャックの売り上げの20%以上をたたき出していた市民ラジオの人気にかげりが出てきたため、同社は新製品を探していた。1976年12月、フレンチとレイニンガーは正式にプロジェクトを任されたが、コスト低減が至上命令とされた。例えば、小文字を扱えないようにすれば原価で1.50ドルの低減となり、売値では5ドルの低減になる。1977年2月、ラジオシャックの親会社であるタンディの社長に、完成したばかりのプロトタイプで単純な税務会計プログラムを動作させて見せた。しかし、タンディが自分の給料の額である15万ドルという数字を入力すると、オーバーフローが起きてプログラムがクラッシュしてしまった。そこで2人は Tiny BASIC に浮動小数点数計算機能を追加した。フレンチは5万台の売り上げが可能だとしたが、懐疑的な重役たちは199ドルの価格でせいぜい年間1,000台から3,000台の売り上げだと見積もった。ローチはタンディを説得し、3,500台の製造で合意をとりつけた。これはラジオシャックの店舗数にほぼ等しく、もし売れなかったとしても各店舗の棚卸し業務などに流用できると考えた末の数字だった。 1977年8月3日、ニューヨークでの記者会見で TRS-80 が発表された。価格は399ドルで、12インチモニターとラジオシャック製テープレコーダを流用したデータレコーダを含めると599ドルとされた。それまでラジオシャックが販売していた最も高額な商品は500ドルのステレオだった。ラジオシャックは、これをきっかけにより高額な商品を扱うようになり、消費者が抱いている「安っぽい」というイメージを打破したいと考えていた。主要ターゲット市場はスモールビジネスで、次いで教育市場、そして一般消費者やホビーストという優先順位だった。実際にはホビーストが主な顧客となったわけだが、ラジオシャックはホビーストを相手にすることがビジネスの主流になるとは考えていなかった。記者会見と同じ日にニューヨークでテロリストによる爆弾さわぎがあり、TRS-80の発表はあまり注目を集めなかったが、TRS-80について問い合わせる6袋ぶんの手紙が届き、1万5千人からTRS-80を買いたいという電話が殺到して、交換機が麻痺する事態となった。ライバルのコモドールは PET 2001 を数カ月前に発表していたが、まだ出荷できていなかった。ラジオシャックは同年9月には出荷を開始した。年間売り上げ予想は3,000台だったが、最初の1カ月半で10,000台を売り上げ、最終的には20万台以上を売り上げることになった〔。 1981年、ローチがタンディのCEOに就任し、レイニンガーは同社の戦略計画ディレクターとなり、フレンチはソフトウェア会社を起業した。コンピュータを製造販売するようになってもラジオシャックのイメージは変わらず、"Trash-80" などと呼ばれたりもしたが、1984年には総売り上げの35%がコンピュータとなり、タンディ・ラジオシャック・コンピュータセンターを500店舗立ち上げた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「TRS-80」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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