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天津市(てんしんし/テンチンし、、、)は、中華人民共和国に位置する直轄市。国家中心都市の一つ。略称は津。 天津は華北平原海河の五大支流の合流する所に位置し、東に渤海を、北に燕山を臨む。市内を流れる海河は天津の母親河とも呼ばれる。 環渤海湾地域の経済的中心地であり、中国北方最大の対外開放港である。首都北京市とは高速道路、高速直通列車、京津城際線によって、0.5〜2時間以内で結ばれている。元々は海河の河港であったが、河口の塘沽に大規模な港湾やコンテナターミナル、工業地帯が形成されている。経済成長率の高さはここ数年に渡り、全国トップである。2017年の第13期の全国体育大会の開催が決まっており、夏季ダボスフォーラム常駐開催都市でもある。 市区人口は506万人、都市圏人口は720万人。 == 歴史 == 天津は隋代に大運河が開通し、南運河と北運河の交差地点の三会海口(現在の金鋼橋三岔河口)がその発祥である。中唐以降は南方からの食糧輸送基地となり、金代には直沽寨、元代には海津鎮が設置され、食糧輸送以外にも軍事拠点としての要衝とされた。 1400年(建文2年)、朱棣が兵を率いて南下、皇位を簒奪すると、皇帝が河を渡った場所を意味する天津の地名が初めて登場した。1404年(永楽2年)、軍事基地としての衛が設置され、翌年には天津左衛が、更に2年後には天津右衛が設置された。清代の1652年(順治9年)に三衛が統合され天津衛とされ、1725年(雍正3年)に天津州、1731年(雍正9年)に天津府と改称され、天津府の下部に天津県、静海県、青県、南皮県、塩山県、慶雲県、滄州を管轄した。清末には天津は直隷総督の駐在地とされ、李鴻章や袁世凱による洋務派の拠点となった。 1858年(咸豊8年)、アロー戦争(第2次アヘン戦争)で英仏連合軍に敗北し、天津条約が締結された。この条約により1860年(咸豊10年)に天津は開港され、以後北京の外港として急速な発展を見た。このため19世紀後半から20世紀前半にかけて、イギリス、フランス、アメリカ、ドイツ、オーストリア=ハンガリー、ベルギー、イタリア、ロシア、日本が相次いで租界を設置し、中国で最も租界の数が多い都市となった。1900年(光緒26年)義和団の乱では8カ国連合軍が天津より上陸し、北京を占拠している。 中華民国が成立すると1927年(民国16年)に天津市に昇格、その後の日中戦争では1937年(民国26年)より1945年(民国34年)まで日本軍により統治され、戦後は1945年から1947年(民国36年)までアメリカ軍基地が設置されていた。 1949年に中華人民共和国が成立すると天津は直轄市に指定され、中国の工業及び貿易の拠点として発展し現在に至っている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「天津市」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Tianjin 」があります。 スポンサード リンク
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