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トーマス・ジョン・ワトソン・シニア(Thomas John Watson, Sr.、1874年2月17日 - 1956年6月19日)は、インターナショナル・ビジネス・マシーンズ(IBM)社の初代社長である〔"Early Ambitions" . IBM. Retrieved January 28, 2012.〕。厳密には同社の「創立者」ではないが、1914年から1956年までIBMのトップとして同社を世界的大企業に育て上げた人物であり、実質上のIBMの創立者とされることが多い。IBM独自の経営スタイルと企業文化を生み出し、パンチカードを使ったタビュレーティングマシンを主力として、非常に効率的な販売組織へと成長させた。たたき上げた一流の実業家であり〔Founding IBM 〕、生前は世界一の富豪として知られ、その死に際しては「世界一偉大なセールスマン」と賞賛された。 == 生い立ちと初期の職歴 == トーマス・ワトソンとジェーン・フルトン・ホワイト・ワトソンの唯一の息子としてニューヨーク州キャンベルで生まれた。上に4人の姉がいる。父はニューヨーク州の南部中央、エルマイラから西に数マイルのペインテドポストで農業と林業を営んでいた。ワトソンはキャンベルにある一家の農場で働きながら1870年代末ごろに近くの小学校 District School Number Five に通い始めた。10代になるとアディソンの Addison Academy に入学している〔。 職業教育を1日で放棄したワトソンは、エルマイラの Miller School of Commerce で1年間、経理とビジネスのコースをとった。1891年にその学校を退学すると、ペインテドポストの商店 Clarence Risley's Market で簿記係として週6ドルで働くようになった。1年後、近所の金物屋 (William Bronsons) の作ったオルガンとピアノを行商していたジョージ・コーンウェルについて行商するようになる。これがワトソンのセールスマンとしての原点である。コーンウェルがこの地を去ると、ワトソンは1人で行商するようになり、週に10ドルを得るようになった。その2年後、委託契約なら週に70ドル稼げることに気づく。この発見の衝撃は大きく、行商を辞めて近くの大都市バッファローに出ることを決意したほどだった〔。 バッファローで短期間だけ Wheeler and Wilcox のミシンのセールスマンを経験。トーマス・J・ワトソン・ジュニアの自伝には次のような記述がある。
後にワトソンは飲酒についてIBMで厳しい規則を実施する。ジュニアはさらに次のように記している。
次の仕事は、評判の悪い興行師 C.B. Barron が創業した Buffalo Building and Loan Company の株を行商する仕事だった。生涯メソジストだったワトソンは、その仕事に就いたことを後悔した。Barron は集めた資金を持って失踪した。その次はバッファローで精肉店を開業したが、すぐに失敗し、ワトソンは金も職もない状況となった〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「トーマス・J・ワトソン」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Thomas J. Watson 」があります。 スポンサード リンク
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