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WHA(、)は、1972年から1979年まで存在した北米のプロ・アイスホッケーリーグである。プロ・アイスホッケーリーグの歴史においては、1925-1926シーズンをもってリーグ閉鎖したWHL(Western Canada Hockey League)以来のNHLに拮抗する勢力を誇ったメジャーリーグとして位置づけられる。 もっとも優勢な立場にあったNHLにチャレンジしようとしたリーグが過去になかったわけではないが、WHAはそれらのリーグの中でも群を抜く成功を収めたといえる。この成功に当たって鍵となったのは、当時のNHLの選手契約に見られた「留保条項(チームは選手を完全な支配下に置くため契約を自動更新できる権利を留保し、選手の移籍の自由を制限する条項)」を頑なまでに採用しない姿勢を貫いたことと、選手の発掘に当たって、主に北米をターゲットとしたNHLとは異なり、全世界にスカウトの手を広げたこととされる。 しかしながら、WHAに所属したチームの多くはフランチャイズが一定せず、また高額の年俸体系を導入したことも各チームの競合を招く一員となった。WHAは地元ホッケーチームがまだなかった数多くの北米主要都市に投資し、NHLオーナー達のカルテルよりもより多くの年俸でもって最優秀の選手達を誘引しようと試みたのである。 == 歴史 == === 創成期 === WHAは、アメリカ人のプロモーター、デニス・マーフィー (Dennis Murphy) とギャリー・デビットソン (Gary Davidson) によって設立された。これら二人は、それぞれアメリカバスケットボール協会 (American Basketball Association) の創立者、初代会長でもあった。マーフィーとデビットソンは間もなくカナダの投資家ビル・ハンター (Bill Hunter) をその仲間として取り込んだ。当時ハンターは、ホッケー界においてNHLに組しない者の中では最も影響力を持つ人物とみなされており、彼の助けもあってWHAはカルガリー、エドモントン、サスカトゥーン、ウィニペグ各都市からの強力な支持を取りつけ、カナダ西部の4チームから編成される新リーグの骨格が定まった(なお、この当時のNHLにおいては、カナダのチームは1つ少ない3チームしかなかった。)。 WHAの功績は、自己のケーグ所属選手との契約に当たって既述の留保条項を織り込まなかったこととともに、NHL契約についても留保条項付きの契約を締結させないようにする役割を果たしたことである。当時NHLの支配下にあった選手達の多くは1972年に契約期間満了をむかえようとしており、中には所属チームとの駆け引きの材料としてWHAへの転出を匂わせたり、NHLチームと契約する前の肩慣らしとして誕生間もないWHAでのプレーをオファーする者もいた。そしてその中には、有名選手であるボビー・ハルのように実際にWHAに加入するもいた。これに対し、当初NHL側は何も行動を起こさず、WHAは1シーズンで打ち切りとなるだろうと予測し事態を静観するにとどまった。しかし、WHAが上手く軌道に乗りそうだとわかると、NHLは1972年にニューヨーク・アイランダーズとアトランタ・フレームス(カルガリー・フレームスの前身)を自らのリーグ内に設立するという対抗策を採った。 1971年11月にWHA加盟の12チームが正式に発表された。その中には、マイアミ・スクリーミング・イーグルスのように全くNHLチームの存在しない都市に本拠地が置かれたものや、まだまだ余地があると考えられた都市に配置されたチーム、例えば、ロサンゼルス・シャークス、シカゴ・クーガース、ニューヨーク・レイダースなどが含まれていた。しかし、このとき発表された12チームのうち、デイトン・アエロズやサンフランシスコ・シーホークスはアリーナ設置上のトラブルで閉鎖され、それぞれヒューストン・アエロズ、ケベック・ノルディクスへと代わった。さらに、カルガリー・ブロンコスやマイアミ・スクリーミング・イーグルスは全く興行することなく、それぞれクリーブランド・クルセダーズ、フィラデルフィア・ブレイザースに置き換えられた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「WHA」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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