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第一次世界大戦(だいいちじせかいたいせん、)は、1914年(大正3年)から1918年(大正7年)にかけて戦われた人類史上最初の世界大戦である。ヨーロッパが主戦場となったが、参戦した先進国家群が帝国主義時代において世界中に植民地を持つ状況において、本国だけでなく植民地も戦場となる状況下、戦闘はアフリカ、中東、東アジア、太平洋、大西洋、インド洋にもおよび世界の多数の国が参戦した。海底ケーブルの覇権を握るイギリスは、切断・停止・検閲の合戦において各国を圧倒した。無線でもイギリスが優位であった〔1914年8月、グリエルモ・マルコーニの会社で働いていたC・S・フランクリンとH・C・ラウンド二人の技師がフランスに赴き、電波の「風向き」を推定する最初の基地局を建設した。英仏で共同研究が進められ、前線で使える水準にまで通信技術が向上した。基地局と傍受網により、敵の飛行機や地上無線局の座標を特定できるようになった。一方、技術的に未熟なドイツ軍は無線通信に暗号文と地の文を混ぜるような手ぬかりを繰り返して、そのたびに英仏へ解読の機会を与えた。そもそも先の8月に貨物船ホバートがオーストラリア軍に拿捕されてしまい、Uボートやツェッペリン飛行機で使われていた暗号帳を三部も奪われていた。HVB 暗号とよばれるこの記録帳は複製されてイギリスに送られた。また、1916年9月英国上空でツェッペリンが撃墜され、その残骸から暗号資料が持ち去られてAFB 暗号までも解読されてしまった。〕。 第二次世界大戦が勃発する以前は、世界大戦争()と呼ばれていた。あるいは大戦争()、諸国民の戦争()、欧州大戦()とも呼ばれていた。当初には諸戦争を終わらせる戦争()という表現もあった〔山室信一『複合戦争と総力戦の断層』―日本にとっての第一次世界大戦 (レクチャー第一次世界大戦を考える)p.17、人文書院、2011〕。すべての交戦国が彼我の戦意を操作するために史上初の規模でプロパガンダを利用した。この点、連合国は大東電信会社と大北電信会社のケーブル網をフル活用することができた。結果として、この戦争はボリシェヴィキがロシア革命を起こす契機ともなった。 当時のヨーロッパ列強は複雑な同盟・対立関係の中にあった。列強の参謀本部は敵国の侵略に備え、総動員を含む戦争計画を立案していた。1914年6月、オーストリア=ハンガリー帝国の皇位継承者フランツ・フェルディナント大公夫妻が銃撃されるというサラエボ事件を契機に、各国の軍部は総動員を発令した。各国政府および君主は開戦を避けるため力を尽くしたが、戦争計画の連鎖的発動を止めることができず、瞬く間に世界大戦へと発展したとされる〔タックマン『八月の砲声』〕。 各国はドイツ・オーストリア・オスマン帝国・ブルガリアからなる中央同盟国(同盟国とも称する)と、三国協商を形成していたイギリス・フランス・ロシアを中心とする連合国(協商国とも称する)の2つの陣営に分かれ、日本、イタリア、アメリカ合衆国も後に連合国側に立ち参戦した。多くの人々は戦争が早期に(「クリスマスまでには」)終結すると楽観していた。しかし、機関銃の組織的運用等により防御側優位の状況が生じ、弾幕を避けるために塹壕を掘りながら戦いを進める「塹壕戦」が主流となったため戦線は膠着し、戦争は長期化した〔ライト兄弟の台頭から飛行機の開発がすすみ、ドイツ帝国は戦争に臨んで史上初の独立空軍を創設した。塹壕戦が主体とはいえ、多少は立体戦も展開された。〕。この結果、大戦参加国は国民経済を総動員する国家総力戦を強いられることとなり、それまでの常識をはるかに超える物的・人的被害がもたらされた。 長期戦により一般市民への統制は強化され、海上封鎖の影響により植民地との連絡が断たれた同盟諸国は経済が疲弊した。1918年に入るとオスマン帝国、オーストリアで革命が発生して帝国が瓦解。ドイツでも、11月にキール軍港での水兵の反乱をきっかけに、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世は退位に追い込まれ大戦は終結した。足かけ5年にわたった戦争で900万人以上の兵士が戦死し、戦争終結時には史上2番目に犠牲者の多い戦争として記録された〔史上一位は太平天国の乱である〕。 == 背景 == 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「第一次世界大戦」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 World War I 」があります。 スポンサード リンク
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