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あがた 森魚(あがた もりお、1948年9月12日 - )は、日本のフォークシンガー、シンガーソングライター、映画監督、俳優、エッセイスト。北海道留萌市出身。埼玉県川口市在住。本名は山縣 森雄(やまがた もりお)。函館ラ・サール高等学校卒業〔、明治大学中退〔。所属はDargelos(ダルジュロ)、ナレーションなどのヴォイス所属事務所:ビーボ。 == 人物 == 1948年に北海道留萌市で生まれ、小樽、青森、函館等の港町で育つ。 小樽の入船小学校に通っていたころ、担任だった教諭の佐藤敬子に薦められて観たディズニー映画「海底二万哩」(1955年日本公開)主人公のネモ船長が人生初のヒーローとなる。 1965年、高校2年の夏、ラジオで聴いたボブ・ディランの「ライク・ア・ローリング・ストーン」に衝撃を受け、作詞作曲を始める。 大学進学のため上京後、1969年12月 URCレコード事務所へ赴き、早川義夫らの前で歌い、早川に薦められ、1970年1月「IFC前夜祭」で初ステージに立つ。 1970年3月、鈴木慶一と出会い、「アンクサアカス」を結成(バンド名・メンバーは変動し、のち、あがた森魚とはちみつぱいへと発展)。斉藤哲夫、野澤享司らとも親交を深める。 1971年8月、中津川フォークジャンボリーにあがた森魚と蜂蜜ぱいとして参加。春一番コンサートにも同様の組み合わせで参加。 1972年4月25日、林静一の同名漫画を題材としたシングル「赤色エレジー」でベルウッド第一弾アーティストとしてメジャーデビュー。50万枚〔CDJournal.com - CDJカレンダー - 初期あがたの最高傑作『日本少年』発売 、2001年12月25日作成。〕を売り上げるヒットになり広く知られるようになる。 以降も日本の大正や昭和のロマンを感じさせるオリジナリティ溢れる世界を創出した。 1980年代にはA児と名乗り「ヴァージンVS」、1990年には「雷蔵」なども結成。ニュー・ウェーブからワールドミュージックまで視野を広げた。 1990年代半ばには、月刊漫画「ガロ」に映画「オートバイ少女」手帖 と題する随筆を連載していた〔月刊漫画「ガロ 」1994年〕。 肉体賛美主義者、自然主義者で、食事から健康法にいたるまでナチュラル志向であり、自然治癒力を強く信じている。このため風邪をひいても薬は飲まず、よほどではない限り医者へは行かない。歯だけはそうもいかず、1993年ころに歯医者を訪れ、現代医学の進歩に驚く。その際に、だめになった歯が補修や抜歯をするしかないことに、改めて自分自身が肉体崇拝者であることを思い知らされる。歯を1本抜いたところ、非常な郷愁に駆られた〔月刊漫画「ガロ」1993年8月号 260P〕。 師匠として、ボブ・ディランと稲垣足穂を挙げている〔Meets Magagine2010年7月号〕。 2000年以降は『佐藤敬子先生はザンコクな人ですけど(2001年)』『タルホロジー(2007年)』リリース、2008年、60歳を迎えライヴツアー「惑星漂流60周年!」を全国各地で展開、2009年2月22日、記念イベント『Zipang Boyz號の一夜』を開催。同年10月ドキュメンタリー映画『あがた森魚ややデラックス』が制作された。 2012年 デビュー40周年記念アルバム『女と男のいる舗道』(映画音楽のカヴァー集)リリースや記念コンサートを開催。 2013年FUJI ROCK FESTIVAL'13に出演。 2014年、2015年にはフィル・スペクター、ボブ・ディランとの出会いから50年を振り返ったアルバム『浦島64』『浦島65BC』をリリース。 ライヴ盤、カヴァーアルバムなどを含め、40枚あまりのアルバムを発表するかたわら、映画監督や役者としても活動。 また、月刊日記映画を毎月制作(2007年~)、上映会も行い、全国で精力的にライヴを展開している。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「あがた森魚」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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