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あきつ丸(あきつまる)〔平仮名表記が正式であり「秋津丸」の漢字表記は誤表記。〕は、大日本帝国陸軍が建造・運用した揚陸艦(上陸用舟艇母船)。帝国陸軍では特種船 丙型(丙型特種船)に分類される。 事実上の世界初のドック型揚陸艦として1930年代中期に開発された「神州丸(神洲丸)」の発展型として、上陸用舟艇である大発動艇(大発)を多数搭載し高い上陸戦遂行能力を持つとともに、上陸部隊の支援を目的とする全通飛行甲板を使用した航空機運用能力を有す世界的にも極めて先進的な揚陸艦であり、その運用思想と船型から現在の強襲揚陸艦の先駆的存在であった。 == 建造の経緯 == 島国である日本の地理的条件、第一次世界大戦の戦訓(ガリポリ上陸作戦)、在フィリピンのアメリカ(極東陸軍)を仮想敵国とする大正12年帝国国防方針によって、1920年代の早くより上陸戦に関心のあった帝国陸軍は、同年代中期には上陸用舟艇として小発動艇(小発)・大発を実用化。更に1930年代初期には従来の「宇品丸」以下一般的な軍隊輸送船と異なり、多数の上陸用舟艇をその先進的な舟艇格納庫に搭載し、主に船尾より迅速かつ安全に発進可能な舟艇母船を開発、その「R1」は設計の手直しを経て1933年(昭和8年)4月8日に起工、「神州丸(神洲丸)」と命名され翌1934年(昭和9年)12月15日に竣工した〔奥本 2011、37項。〕。揚陸艦たる通称特種船「神州丸」は優秀な舟艇運用能力だけでなく、上陸部隊の支援を目的とする航空機運用能力をも有しており、その発進にはカタパルトを使用していた。 完成した「神州丸」は錬成を重ね、各演習のみならず1937年(昭和12年)に勃発した支那事変の各上陸戦・輸送任務でその能力を遺憾なく発揮し大活躍〔奥本 2011、43項。〕。この「神州丸」の成功により、陸軍は更なる上陸戦対応能力の強化を図るべく特種船の増産を計画するに至った。 なお、陸軍がこれら本格的な揚陸艦を開発・保有した背景について、当時の海軍は戦闘艦の整備に傾注し、揚陸艦といった支援・補助艦艇の開発には極めて消極的で、近代戦において進化する上陸戦のみならず遠隔地への軍隊輸送・海上護衛(船団護衛)に対して理解が無く、揚陸艦のみならず上陸用舟艇・上陸支援艇の開発・保有は必然的に陸軍が行う必要があった事に留意しなければならない〔「神州丸」の開発にあたって当初は陸軍運輸部が独自に設計を行っていたが(「R1」)、途中で海軍艦政本部の技術協力により大幅な設計変更が行われている(舟艇運用能力・航空機運用能力自体は元より陸軍の考案)〕。かつ、陸軍が海軍とは別に(揚陸や輸送を目的とする)独自の船舶部隊(陸軍船舶部隊)を保有する事は、日本だけでなく同時期のアメリカ陸軍でも大々的に行われていた行為である〔21世紀初頭現代においても、アメリカ陸軍は大規模な船舶部隊を海軍とは別に保有している。〕。 支那事変の実戦に先駆け1936年(昭和11年)8月には既に特種船の増産が要望されていたが、1938年(昭和13年)10月に陸軍中央はそれを決定。翌1939年(昭和14年)には海軍と協議を行い具体的な増産計画を定義した〔奥本 2011、44項。〕。予算の制約により、大量の特種船を「宇品丸」・「神州丸」のような陸軍省保有船(陸軍船)として維持する事は難しいため、陸軍は戦時の徴用を前提として民間海運会社に補助金を出し、建前上とはいえ特種船を民間籍の商船として建造する事とし〔何れも竣工当時は既に太平洋戦争(大東亜戦争)下であるため、竣工と同時に陸軍徴用船となっている。〕、平行して各海運会社・造船所とも協議を重ね9隻・80,000tの建造を計画。その計画量産特種船は船型によって大別して以下の通りとなる。 * 甲型 - 10,000t級貨客船型(のちの戦時標準船M型構造はM甲型と称す) * 甲(小)型 - 5,000t級砕氷貨物船型(乙型とも) * 丙型 - 10,000t級航空母艦型(甲型・甲(小)型と異なり航空機運用能力を有す、のちの戦時標準船M型構造はM丙型と称す) * 丙型は平時は第1形態として一般商船型の構造物を甲板上に有し、戦時にはそれを撤去し飛行甲板を装着し第2形態となる。 前身の「神州丸」はその外観が極めて特異であり、(秘密兵器である特種船の)秘匿・防諜の観点から好ましくないため、これら量産特種船の船型は一般商船型とされ本来は空母型である丙型も当初は商船型構造物を有す事になっている〔奥本 2011、45項。〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「あきつ丸」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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