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宇垣 纏(うがき まとめ、1890年(明治23年)2月15日 - 1945年(昭和20年)8月15日)は、日本の海軍軍人。海兵40期。最終階級は海軍中将。陣中日記『戦藻録』が有名。 == 生涯 == 1890年(明治23年)2月15日、岡山県赤磐郡潟瀬村(現・岡山市東区瀬戸町肩脊)の農家で教師の父・善蔵のもとに生まれる。宇垣一成陸軍大将、宇垣完爾海軍中将は近郷同族だが、縁戚関係はない〔阿川弘之『連合艦隊の名リーダーたち』プレジデント社233頁〕。岡山中学校を経て1909年(明治42年)9月11日、海軍兵学校40期に成績順位150名中第9位で入校〔#良い参謀良くない参謀60頁〕。同期に大西瀧治郎、山口多聞、多田武雄ら〔#蝦名 特攻機78頁〕。1912年(明治44年)7月17日、海軍兵学校を成績順位144名中第9位で卒業し〔、少尉候補生となる。 1919年(大正8年)12月、海軍砲術学校高等科学生を次席で〔修了。1924年(大正13年)11月、海軍大学校甲種学生22期を卒業し、12月1日に海軍少佐昇進。1932年(昭和7年)11月15日、海大教官(兼陸軍大学校教官)となる。この頃、速力の落ちていた金剛型戦艦の高速化を周囲に主張し、その改装に関与した〔#戦藻録(九版)234頁〕。1937年(昭和12年)12月1日、戦艦「日向」艦長を務める。造船士官・堀元美によれば、宇垣は夜の巡検後に浴衣姿で士官室に現れて士官達と歓談し、乗艦していた技術士官達と今後の軍艦のアイデアや、新型の巡洋戦艦の試案などを語り合ったという〔#造船士官の回想 上221-222頁〕。 1938年(昭和13年)11月15日、海軍少将に昇進、軍令部出仕となり、12月15日、軍令部第一部長に補される。宇垣は作戦課長・中澤佑大佐と共に、日独伊三国同盟締結は米国を挑発し、日米戦争の危機を招き最悪の事態に陥ると、一貫して反対の立場をとった〔#蝦名 特攻機65頁〕。しかし、1940年(昭和15年)夏以降の親独ムードの盛り上がりから、海軍がこれ以上反対することはもはや国内の政治事情が許さぬ(海軍次官・豊田貞次郎中将の弁)と海軍首脳部が総じて同盟締結に賛意を示したこともあり、最終的に宇垣も参戦の自主性維持(自動参戦の禁止)を条件として同盟締結に賛成した〔#蝦名 特攻機105-106頁〕。三代一就(当時軍令部作戦課航空主務部員)は、9月15日、海軍大臣・及川古志郎、次官・豊田貞次郎、軍令部次長・近藤信竹等が出席した会議で宇垣は軍令部を代表し単独で三国同盟に反対するも、陸軍との決裂を恐れる他の出席者達に押し切られてしまったと回想している〔#海軍反省会3144-145頁〕。その後、宇垣は対米戦準備を積極的に主張、推進するようになった〔#蝦名 特攻機114-115頁〕。千早正隆は、山本五十六は宇垣が軍令部で大艦巨砲主義者として大和型戦艦3・4番艦(信濃、111号艦)の建造を推進したことに不快感を抱き〔#勝つ戦略負ける戦略36頁〕、日独伊三国同盟締結問題における宇垣の変節に対しても山本は嫌悪感を抱き、その後、宇垣が連合艦隊参謀長着任してからもしばらくの間、山本と宇垣には不和が生じていたと指摘する〔#良い参謀良くない参謀67頁〕。 1941年(昭和16年)4月10日、第8戦隊(重巡洋艦「利根」「筑摩」)司令官を拝命。わずか3ヶ月間の勤務であったが、宇垣によれば「餘が最も眞劍に且最も愉快に指揮統率せし戦隊」であり、2隻が真珠湾攻撃から帰還した際には「よくぞ偉勲を奏して目出度帰着せる子供の凱旋を迎ふる親心なるべし」と喜んでいる〔#戦藻録(九版)57頁〕。その後も「利根」「筑摩」の事を気に掛けていた描写がある〔#戦藻録(九版)308頁〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「宇垣纏」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Matome Ugaki 」があります。 スポンサード リンク
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