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うめだ花月(うめだかげつ)は、大阪府大阪市の梅田・曽根崎・扇町通りに面する複合ビル「スイング梅田ビル」地階にあった演芸場。よしもとクリエイティブ・エージェンシー(2007年9月までは吉本興業)直営。2008年(平成20年)10月31日閉館。 == 歴史 == 戦前、演芸会社であった吉本興業は、終戦を機に映画の時代が本格的に到来することを見越して演芸から撤退し、映画事業をメインとする会社に転換した。その一環として同社は、1946年(昭和21年)に当劇場現在地とは別の場所に洋画専門館「梅田グランド劇場」を開場させた。 1957年(昭和32年)、現在地を購入の上、建物を新築して洋画専門館「梅田グランド劇場」を新しい建物の1階に移転した。またこの建物の地階に、東映封切館「梅田花月劇場」を新規開場した。この「梅田花月」は映画館である。 1959年(昭和34年)、吉本は映画事業を縮小し、演芸に再参入した。その第一弾として、同年3月1日、映画館梅田花月劇場を改装し演芸場「うめだ花月劇場」として開場した(これが本項のうめだ花月である)。同時に開局したMBSテレビと独占契約を結び、こけら落しの軽演劇「アチャコの迷月赤城山」の中継が行われた(注:アチャコは、お笑い廃業中の吉本にあって、同社所属を続けたただ一人の芸人)。 当初は観客はまばらで不採算を余儀なくされたが、当劇場で新たな軽演劇「吉本新喜劇」がスタートし、これが当たって観客数が増加した。より多くの収容を可能にするため、梅田グランド劇場が地階に、うめだ花月劇場が1階に入れ替わった。ここでの当劇場の収容人員は約700名。のち、1960年代半ばの演芸ブームや、1980年代半ばの漫才ブームで大いに脚光を浴びる。このブームにより東京で大成功し、大阪本社製作部次長に栄転した木村政雄は、多角化経営を目指し、お笑い以外に進出するため当劇場を1990年(平成2年)老朽化により閉鎖。ここで演芸場としての歴史はいったん閉じる。閉鎖に伴い、当劇場を母体とする吉本新喜劇には大幅な減員・トップの首切りが必要になるが、木村は、これを「新喜劇やめよっカナ!?キャンペーン」としてイベント化。同劇団の再生を見事に果たした。 当地は解体され、複合ビル「SWINGうめだ」が新築された。木村は、同社の多角化を考えており、文化・カルチャーに進出するため、SWINGうめだ地階に新開場する劇場を演芸場でなく、演劇専門とした。「うめだ花月シアター」(1992年 - )→「よしもとrise-1シアター」(2001年7月 - )。この劇場は、非常に小規模で、収容人員も限られていた。 2002年(平成14年)10月、木村は常務取締役を最後に吉本を退職。木村が推し進めた多角経営路線を見直した吉本はお笑いへの回帰を標榜し、SWINGうめだ内のよしもとrise-1シアターを閉鎖・改装。2003年(平成15年)8月12日に、演芸場「うめだ花月」として再開場した。ターゲットを成人(女子中高生よりも高めの層で、主に青年社会人中心)と設定した。それに伴って、baseよしもとの“タレプロ組”をこちらへ移動させ、心斎橋筋2丁目劇場後期を支えた中堅芸人らと共に出演者の中軸として据えることとした。同社には長い間絶えていた落語定席「花花寄席」も開設(2008年3月)。しかし、劇場の構造は改築前の小演劇専門よしもとrise-1シアターを引き継いでおり、演芸場としては極端に少なすぎる収容人員(230人:ただし正規の座席数は190席で、他補助席・立ち見用スペースが約40名分)が足かせとなっていた。 2008年(平成20年)10月31日、閉館。同年11月28日開場する京橋花月に全機能・プログラムを移転。移転後のプログラム・出演層は旧「うめだ花月」と「なんばグランド花月」の折衷型とされている。同劇場は2.5倍にあたる客席数(定員500名)であり、近隣の京橋駅至近に位置する。しかし、その京橋花月も2011年(平成23年)11月限りで閉鎖されることになった。 うめだ花月閉館後の跡地は、2012年(平成24年)6月15日よりフィットネスクラブ「リズミックボクシング 」が入居している。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「うめだ花月」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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