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蛭子 能収(えびす よしかず、1947年10月21日 - )は、日本の漫画家、イラストレーター、タレント、エッセイスト、ギャンブラー、俳優、映画監督。ファザーズコーポレーション所属。長崎市立長崎商業高等学校卒業。 看板屋・ちり紙交換・ダスキンのセールスマンなどの職を経て『月刊漫画ガロ』(青林堂)1973年8月号に掲載された「パチンコ」で漫画家デビュー。以後、自販機本や官能劇画誌などアンダーグラウンドを中心に数多くの不条理漫画を執筆し、特異な作風で注目を集め、ヘタウマ漫画家としての地位を確立すると同時にサブカルチャーの分野においても重要な役割を果たした。 1980年代以降はタレントとしての活動に比重を移し、数多くのテレビ番組に出演している。主な著書に『地獄に堕ちた教師ども』『私はバカになりたい』『私の彼は意味がない』『家族天国』『正直エビス』『ヘタウマな愛』『こんなオレでも働けた』『ひとりぼっちを笑うな』など多数。 青林工藝舎から刊行されている特殊漫画雑誌『アックス』にて隔月連載中。 == 経歴 == 1947年(昭和22年)熊本県牛深市(現天草市)生まれ〔『くらたまのえびす顔』(ゴマブックス)著者紹介より。〕、長崎県長崎市戸町育ち。 少年時代は貸本劇画誌『影』や『街』を愛読しており、山森ススムや辰巳ヨシヒロの劇画を好んで読んでいた。映画にも関心を持ち、勅使河原宏監督の『砂の女』など前衛映画も勧んで鑑賞した〔『蛭子能収コレクション (映画編)』(マガジン・ファイブ、2004年)-「砂の女」の章より。〕。 中学2年生の時に、不良グループに強制的に入らされ、いじめを受けていた。使い走りや持参した弁当をご飯と梅干しだけの日の丸弁当に無理矢理交換させられたり、学校で事件が起こると濡れ衣を着せられていた。家に帰るとノートに嫌な相手を殺す漫画を描いて学校の不満などを発散させていたという。この頃の将来の夢は「どこかの会社の事務員になること」であったという〔地上にはない美しさを求めて…黒いエビちゃん!笑う悪魔、地下住人の星・蛭子能収がOG降臨! (OCN TODAY) 〕。 商業高校時代は兄の勧めで美術クラブに所属する。そこで初めてグラフィックデザインに出会い、横尾忠則、宇野亜喜良、粟津潔、亀倉雄策に大きな影響を受ける。グラフィックデザイナー志望であったが、高校卒業後に地元の看板店に就職。当初からいずれは会社を辞めたいと思っていたと言い、看板店の同僚が主宰する漫画サークルに参加する。看板店には1965年から4年半勤務し、看板設置などをしていたが、漫画サークルで『月刊漫画ガロ』増刊号「つげ義春特集」を読み「ねじ式」に感銘を受け「大阪万博を見に行く」と嘘をつき1970年に無断で上京する。 上京後は出版社や映画会社に勤めようとするが高卒のため断られ、再び看板屋の職に就く。看板屋では事ある毎に自分を執拗に怒鳴りつける先輩のしごきに耐える寮生活を送り、憤慨した蛭子は「先輩の同僚」を残酷に殺す漫画を描くなど、創作活動に当時の不満をぶつけていた〔この「先輩の同僚」を残酷に殺す漫画は『月刊漫画ガロ』1974年3月号掲載の「仕事風景」(青林工藝舎刊 『地獄に堕ちた教師ども』収録)にて確認できる。〕。また、この頃からATG関連の前衛映画を数多く鑑賞し、映画監督に憧れてシナリオ学校に1年程度通っていた時期もある〔が、「誰とも喋った記憶が無い」ほど孤独な日々を過ごしていたという。 ほどなく映画監督への道を諦めて青林堂に漫画の持ち込みを始める。投稿1作目の「狂気が彷徨う」は落選した〔この落選した漫画について、蛭子はインタビューの中で以下の様に答えている。 また、惨殺シーンを総ページ数から「あり得ないページ数」を割いているのは、ジョン・ウェインの西部劇『アラモ』の後半1時間が殆ど殺戮シーンであったことに衝撃を受け、惨殺シーンを1ページで済ませるのでなく迫力を出すため10ページぐらい割いてじっくり殺すようにした為という。しかし、その一方で「そういうシーンって描くと途中でメゲるんですよ。自分でもイヤになるんです。殺しのシーンを長々書くの、精神的に耐えられなくなる(笑)」という感想も述べている。〕が、2作目で青林堂社長であり名物編集長として知られる長井勝一に才能を見出される。その後『ガロ』1973年8月号掲載の入選作「パチンコ」でプロの漫画家としてデビューする〔。この漫画家デビューを「ガロに入選するのは夢だったから今までの人生で一番嬉しかった」と述懐する反面、青林堂の経営難により原稿料が支払われる事は一度も無かった。このデビュー作はタイトルが「パチンコ」であるがパチンコは一切出てこず、「パチンコに行こうとしても行けずに百貨店を彷徨う男」を描いた奇妙なストーリーに仕上がっており、実際に見た夢に創作を交えて漫画にしている。 私生活では、長女が生まれた1972年に結婚した〔。しかし、金銭的には困窮しており、ちり紙交換の職に就くが、1974年に長男が生まれたのを機に有限会社ダスキン練馬のセールスマンになる。サラリーマン時代の自身については、「どんな時でも目立たずに、自己主張なんてことは一切せず、何もかも上司の言いなりに動く会社員でしたね。まぁオレの性格が意見とかそういうのが言えないから、めんどくさい業務とか残業なんかも頼まれると断りたいけど断れないんですよ。心の貧しい生活を強いられている、それがサラリーマンだと思っていたんですよね。」と回想している〔驚愕の趣味嗜好が明らかに…黒いエビちゃんの興奮ポイントに一同唖然! (OCN TODAY) 〕。 漫画では収入を一銭も得る事が出来ず、デビューから2年程で寡作になり音信も途絶えていたが、1970年代末に名物編集者の高杉弾(自販機雑誌『JAM』『HEAVEN』初代編集長)と山崎春美(バンド「ガセネタ」「TACO」のボーカリスト)の依頼により、自動販売機用成年雑誌『JAM』にて再デビューを果たす。また、この時に漫画家としての収入を初めて得る〔蛭子能収 - スターアルバイト烈伝(バイト情報のバイトル) 〕。 ニューウェーブ漫画家の一人として『ガロ』以外に官能劇画誌などの媒体へも進出。つげ義春や前衛映画に影響されたシュールで不条理なギャグ漫画や暴力的なモチーフを多用するダークな漫画を描くようになる。絵は決して上手とは言えないながらも「ヘタウマ」という作風で注目される。 1981年、初単行本である『地獄に堕ちた教師ども』が青林堂から刊行されるのを機にダスキンを退社して漫画家として独立する。その一方で、劇団東京乾電池の柄本明から劇団のポスターを依頼され、劇団に出入りするようになる。その後、柄本からの依頼で劇団東京乾電池の公演「台所の灯」(1987年5月15日・こまばアゴラ劇場上演)に出演する〔 DISCAS INTERVIEW 蛭子能収さん(漫画家) 2008〕。これがフジテレビの横澤彪プロデューサーの目に留まり、1987年に『笑っていいとも!』に文化人枠でレギュラー出演する。俳優として舞台活動もこなし、テレビドラマ「教師びんびん物語II」への出演を皮切りにテレビ番組に本格的に進出し、特異なキャラクターを活かした芸能活動に比重を移して数多くのバラエティ番組に出演している。特にタレントとしての代表作であるテレビ東京系のバラエティ番組『ローカル路線バス乗り継ぎの旅』シリーズでは、リーダー役の太川陽介やゲストの女性タレントと共に日本各地の路線バスを乗り継いでいき、行き当たりばったりの珍道中を展開している。数多くのテレビ番組に出演する一方で、タレントの仕事はあくまでアルバイトとしている。 2003年に短編映画「諫山節考」で映画監督としてデビュー〔。この作品は元々シンガーソングライター・諫山実生のプロモーションビデオとして作られたものである。監督第2作目は2007年の『歌謡曲だよ、人生は』の「いとしのマックス/マックス・ア・ゴーゴー」(脚本も兼任)。 2008年には『ガロ』の後輩漫画家で蛭子ウォッチャーでもある特殊漫画家の根本敬からの依頼で、漫画共作ユニット「蛭子劇画プロダクション」を結成。メンバーは、蛭子能収(社長)、根本敬(チーフアシスタント)、安部慎一、マスク・ベビー。 2011年には、故郷・長崎の長崎歴史文化博物館において初の個展「えびすリアリズム -蛭子さんの展覧会-」が開催された。 2014年には、エッセイ『ひとりぼっちを笑うな』を上梓。本書では「小さな頃から“分相応”的なものに自分らしさを感じ“他人に害を与えない”ことを一番大事に考えてきた」と述べ、つながりや絆を必要以上に大事にする現代社会の風潮に懐疑的な立場で独自の持論を述べた。この「内向的な人間のための幸福論」として刊行された著書は10万部を売り上げるヒットとなり、活字本ながら蛭子最大のベストセラーとなった〔漫画単行本の最高売上が8千部であったと述べている(2015年11月9日放送「ビートたけしのTVタックル」より本人談)〕。 2016年には、長編映画初主演となる任侠映画『任侠野郎』が公開予定である。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「蛭子能収」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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