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楢崎 龍(ならさき りょう、天保12年6月6日(1841年7月23日) - 明治39年(1906年)1月15日)は、江戸時代末期(幕末)から明治時代の女性。名は一般にお龍(おりょう)と呼ばれることが多い。 中川宮の侍医であった父が死んで困窮していた頃に坂本龍馬と出会い妻となる。薩長同盟成立直後の寺田屋遭難では彼女の機転により龍馬は危機を脱した。龍馬の負傷療養のため鹿児島周辺の温泉を二人で巡り、これは日本初の新婚旅行とされる〔小松清廉が先であるという異論もある(「日本初の新婚旅行は小松帯刀?通説“龍馬”に異論登場」2008年10月16日付読売新聞)〕。龍馬の暗殺後は各地を流転の後に大道商人・西村松兵衛と再婚して西村ツルを名乗る。晩年は落魄し、貧窮の内に没した。 == 生涯 == === 龍馬との結婚まで === 天保12年(1841年)、医師の楢崎将作と貞(または夏)の長女として京都で生まれた。異説では実父は西陣織を扱う商人で将作の養女になったとも〔。(ただし、同書ではこの説について否定的なスタンスを取っている)〕いう。妹に次女・光枝、三女・起美(君江)、弟に太一郎、健吉がいる。 楢崎家は元は長州の士分であったが、お龍の曽祖父の代に主君の怒りを受けて浪人になっていた。父の将作は青蓮院宮の侍医であったため、お龍は裕福な家庭で育ち、生け花、香道、茶の湯などを嗜んだが、炊事は苦手だった。しかし、勤王家であった父が安政の大獄で捕らえられ、赦免後の文久2年(1862年)に病死すると〔将作は安政の大獄で獄死したとされていたが、近年では赦免後に病死したことが明らかになっている(『坂本龍馬歴史大事典』p.98)。〕、残された家族はたちまち困窮し、家具や衣類を売って生活をするようになった。母が悪者に騙されて、妹の起美が島原の舞妓に、光枝が大坂の女郎に売られると知ったお龍は、着物を売って金をつくると大坂に下り、刃物を懐に抱えて死ぬ覚悟で男2人を相手に「殺せ、殺せ、殺されにはるばる大坂に来たんだ。これは面白い殺せ」〔慶応元年9月9日付書簡(原文「女曰ク、殺し殺サレニはる/″\大坂ニくだりてをる、夫ハおもしろい、殺セ/\といゝけるニ、(後略)」『龍馬の手紙』p.142)〕と啖呵を切って妹を取り返した武勇伝はこの頃のことである〔慶応元年9月9日付書簡(『龍馬の手紙』p.133-146)〕〔「続反魂香」()〕。 その後、お龍は七条新地の旅館「扇岩」で働き、母・貞は方広寺大仏殿近くの天誅組の残党を含めた土佐藩出身の尊攘派志士たちの隠れ家で賄いをするようになった。龍馬とお龍は元治元年(1864年)頃に出会っている〔『坂本龍馬と海援隊』p.84〕。後年のお龍の回顧によると、龍馬と初めて会ったときに名前を聞かれて紙に書くと自分と一緒だと笑っていたという。お龍に惚れた龍馬は母・貞に、お龍を妻にしたいと申し入れ、貞も承知した〔。 同年6月の池田屋事件の際に、大仏でも会津藩の手入れがあって家財道具も没収されてしまった。(大仏騒動) 一家は困窮し、龍馬は「日々、食うや食わず、実に哀れな暮しであった」と述べている〔。これらお龍の境遇について、龍馬は姉・乙女に宛てた慶応元年9月9日付の手紙で詳しく書き送り、彼女を「まことにおもしろき女」と評している〔。お龍の後年の回想によると、同年8月1日に龍馬とお龍は内祝言を挙げた〔『反魂香』()〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「楢崎龍」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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