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お雇い(御雇)外国人(おやといがいこくじん)は、幕末から明治にかけて、「殖産興業」などを目的として、欧米の先進技術や学問、制度を輸入するために雇用された外国人で、欧米人を指すことが多い。江戸幕府や諸藩、明治政府や府県によって官庁や学校に招聘された。お抱え外国人とも呼ばれることもある。 == 概要 == 「お雇い外国人」と呼ばれる人々は、日本の近代化の過程で西欧の先進技術や知識を学ぶために雇用され、産・官・学の様々な分野で後世に及ぶ影響を残した。江戸時代初期にはヤン・ヨーステンやウィリアム・アダムスなどの例があり、幕府の外交顧問や技術顧問を務め徳川家康の評価を得て厚遇された。幕末になり鎖国が解かれると、フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトが一時期幕府顧問を努め、レオンス・ヴェルニーが横須賀造兵廠の建設責任者として幕府に雇用された例などがある。 しかし、外国人の雇用が本格化するのは、明治維新以降である。例えば、法令全書〔『近代デジタルライブラリー・法令全書・明治5年』で検索〕の文部省医学教則をみれば、外国人教師による高度な内容の医学教育がすでに1872年の時点でなされており、このような教育を通じて西洋の最先端の知識や技術が急速に日本に流入したことをうかがわせる。 ひと口に「お雇い外国人」とはいうものの、その国籍や技能は多岐に亘り、1868年(慶応4年/明治元年)から1889年(明治22年)までに日本の公的機関・私的機関・個人が雇用した外国籍の者の資料として、『資料 御雇外国人』〔ユネスコ東アジア文化研究センター編『資料 御雇外国人』(小学館、1975年)。ASIN B000J9F6J2〕、『近代日本産業技術の西欧化』〔三枝博音、野崎茂、佐々木峻著『近代日本産業技術の西欧化』(東洋経済新報社、1960年)。ASIN B000JAOW1E〕があるが、これらの資料から2,690人のお雇い外国人の国籍が確認できる。内訳は、イギリス人1,127人、アメリカ人414人、フランス人333人、中国人250人、ドイツ人215人、オランダ人99人、その他252人である。また期間を1900年までとすると、イギリス人4,353人、フランス人1,578人、ドイツ人1,223人、アメリカ人1,213人とされている〔Hazel Jones, "Live Machines: Hired Foreigners and Meiji Japan." (Univ of British Columbia Press, March 1980). ISBN 978-0774801157〕。 1890年(明治23年)までの雇用先を見ると、最多数のイギリス人の場合は、政府雇用が54.8%で、特に43.4%が工部省に雇用されていた。明治政府が雇用したお雇い外国人の50.5%がイギリス人であった〔植村正治著『明治前期お雇い外国人の給与』 流通科学大学論集-流通・経営編-第21巻第1号、1-24 (2008)〕。鉄道建設に功績のあったエドモンド・モレルや建築家ジョサイア・コンドルが代表である。 アメリカ人の場合は54.6%が民間で、教師が多かった。政府雇用は39.0%で文部省が15.5%、開拓使が11.4%であるが、開拓使の外国人の61.6%がアメリカ人であった(ホーレス・ケプロンやウィリアム・スミス・クラークなど)〔植村、同上〕。 フランス人の場合は48.8%が軍の雇用で、特に陸軍雇用の87.2%はフランス人であった〔。幕府はフランス軍事顧問団を招いて陸軍の近代化を図ったが、明治政府もフランス式の軍制を引き継ぎ、2回の軍事顧問団を招聘している。のちに軍制をドイツ式に転換したのは1885年(明治18年)にクレメンス・ウィルヘルム・ヤコブ・メッケル少佐を陸軍大学校教官に任じてからである。また、数は少ないが司法省に雇用され、不平等条約撤廃に功績のあったギュスターヴ・エミール・ボアソナードや、左院でフランス法の翻訳に携わったアルベール・シャルル・デュ・ブスケなど法律分野で活躍した人物もいる。 ドイツ人の場合は政府雇用が62.0%であり、特に文部省 (31.0%)、工部省 (9.5%)、内務省 (9.2%) が目立つ〔。エルヴィン・フォン・ベルツをはじめとする医師や、地質学のハインリッヒ・エドムント・ナウマンなどが活躍した。 オランダ人の場合、民間での雇用が48.5%であるが、海運が盛んな国であったことから船員として働くものが多かった〔。幕府は1855年(安政2年)、長崎海軍伝習所を開設し、オランダからヴィレム・ホイセン・ファン・カッテンディーケらを招いたため海軍の黎明期にはオランダ人が指導の中心となったが、幕末にイギリスからトレーシー顧問団が招聘され(明治維新の混乱で教育は実施されず)、さらに明治新政府に代わってからは1873年(明治6年)にダグラス顧問団による教育が実施され、帝国海軍はイギリス式に変わっている。他に土木の河川技術方面でヨハニス・デ・レーケら多くの人材が雇用された(オランダの治水技術が関係者に高く評価された背景があるとされているが、ボードウィン博士兄弟との縁故による斡旋という説もある)。 イタリア人はその人数こそ多くなかったものの、工部美術学校にアントニオ・フォンタネージらが雇用された。またエドアルド・キヨッソーネが様々な分野で貢献した。 お雇い外国人は高額な報酬で雇用されたことが知られる。1871年(明治3~4年)の時点で太政大臣三条実美の月俸が800円、右大臣岩倉具視が600円であったのに対し、外国人の最高月俸は造幣寮支配人ウィリアム・キンダーの1,045円であった。その他グイド・フルベッキやアルベール・シャルル・デュ・ブスケが600円で雇用されており、1890年(明治23年)までの平均では、月俸180円とされている〔。身分格差が著しい当時の国内賃金水準からしても、極めて高額であった。国際的に極度の円安状況だったこともあるが、当時の欧米からすれば日本は極東の辺境であり、外国人身辺の危険も少なくなかったことから、一流の技術や知識の専門家を招聘することが困難だったことによる。 多くは任期を終えるとともに帰国したが、ラフカディオ・ハーンやジョサイア・コンドル、エドウィン・ダンのように日本文化に惹かれて滞在し続け、日本で妻帯あるいは生涯を終えた人物もいた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「お雇い外国人」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Foreign government advisors in Meiji Japan 」があります。 スポンサード リンク
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