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おつやの方(おつやのかた、生年不詳 - 天正3年11月21日(1575年12月23日))は、戦国時代から安土桃山時代にかけての女性。織田信定の娘で、織田信長の叔母にあたる。通称は艶、岩村殿、修理夫人、お直の方、岩村御前とも言われる〔川口素生『戦国軍師人名事典』P72〕。 == 生涯 == 遠山景任の妻。元亀3年(1572年)5月、景任は子供が無いまま病死したため、おつやの方は信長の五男坊丸(後の織田勝長)を養嗣子とした。但し坊丸はまだ幼かったので、おつやの方が当主の座を引き継ぎ岩村城の女城主となった。また信長は軍勢を岩村城に送り込んだ。 その後、元亀3(1572年)10月、武田信玄が西上作戦を開始する。信玄はそれまで各地に上洛する旨を喧伝していたが、実際の行動は山県昌景と秋山虎繁(俗に信友とも)の別働隊3,000を三河に向かわせ、自身も遠江に出陣するという、徳川家康の領土を奪取することを主目的とした作戦であったが、おつやの方は信玄の動きに呼応し、武田軍に寝返ってしまう。同年11月14日、岩村城は武田方のものとなり、信玄は配下の下条信氏を送り込んだ。(『当代記』) このおつやの方の行為に他の東美濃諸豪族は反発し、おつやの方と上村合戦と呼ばれる合戦が起こったとみられる。11月14日に信玄は遠山氏に岐阜の信長を牽制せよと命じており、また12月12日には遠藤加賀守に岩村城へ兵を増援すると伝えている。一方信長も11月15日に延友佐渡守へ遠山氏が裏切ったにも関わらず忠節を尽くしたことを賞し日吉郷・釜戸本郷を与えている。 信玄はこのおつやの方の裏切りによって作戦を変更し、三河から東美濃へ入って信長を攻めることにした。(『三河物語』)その途中12月22日、三方ヶ原の戦いが起こり、信玄は家康を破る。 元亀4(1573年)3月6日、信玄は美濃に秋山虎繁を送り、岩村城城主とした。この時におつやの方と秋山との婚姻が行われたとみられる。坊丸もまた甲斐に送られた。しかし同年4月12日に信玄は病死し、武田軍は撤退する。 織田軍は天正3年(1575年)の長篠の戦いで武田軍を敗ると、織田信忠らが岩村城を包囲。武田勝頼は岩村城を救援するべく出陣したが、勝頼が着くより前の11月21日、岩村城は落とされた(天正3年の岩村城の戦い)。信長は虎繁らを赦免すると見せかけ、礼に来たところを捕らえ、長良川近くで磔刑にした。その理由は、長篠城の奥平信昌が徳川家康に寝返った際、武田勝頼が奥平の妻を磔にしたので、その報復だということだった(『甲陽軍鑑』)。おつやの方もまた信長に捕らえられて逆さ磔で処刑された。あるいは信長が裏切られた鬱憤を晴らすために自ら斬ったとも言われる(『当代記』)。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「おつやの方」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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