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かねやす百貨店(かねやすひゃっかてん)とは、かつて小倉市(現在の北九州市)に存在した百貨店である。小倉市で2番目に開業した百貨店であり〔北九州市史編さん委員会(1992):1140ページ〕〔小倉で最初に開業した百貨店は大正7年(1918年)創業の「兵庫屋」であるが数年で消滅した。場所は『北九州市史』によれば魚町四丁目、『小倉市誌』によれば鳥町の一角にあったという。〕、かつては井筒屋、菊屋百貨店(のちの小倉玉屋)とともに小倉を代表する百貨店であった〔小倉市役所、末岡作太郎(1973):352-353ページ〕。 == 歴史 == 創業は文久年間。創業当初は「かねやす」として米穀店や金の目利きを行っており、店も田町にあったが〔、その後魚町に移り慶応年間に呉服商を開始する。長州戦争や明治維新の動乱の間も、同店はこの地にあり続けた〔。 明治28年(1895年)には娘婿であった米谷勘吉が暖簾分けして「新米谷呉服店」を創業、後に魚町銀天街の呉服店「新米谷」となった。 大正9年(1920年)3月には三代目安次郎が「かねやす百貨店」としてデパートを創業〔。当初は木造4階建で、食堂も併設されていた〔。昭和11年(1936年)11月には新たに鉄筋7階建で耐火造〔の新館が完成〔。新館は当時の小倉では最も高い建物であったといわれ、本館・新館の売り場面積は合わせて4,096.3平方メートルとなった。呉服店の時代から市民の信頼を得ていたこともあり、かねやす百貨店は順調に業績を伸ばした〔。戦時中には街の防空のため、屋根の部分に防空監視哨が置かれた〔。この防空監視哨は現存しており〔、隣の立体駐車場などから見ることができる。 1952年(昭和27年)11月30日、後に「魚町大火」と呼ばれる〔魚町商店街振興組合、魚町一丁目商店街振興組合(2012)〕火事で死者は出なかったものの、魚町商店街の店舗22軒が全焼、2軒が半焼し、合計で51戸が被災、かねやす百貨店でも5人の怪我人を出した〔。 社員の努力により2週間後には営業を再開したが〔、火事の損害が経営に与えた打撃は大きく、ついに昭和29年(1954年)10月に閉店し〔その後破産。米穀店として創業して以来の約100年の歴史に幕を下ろした。その後新館(建物自体は焼け残った)は雑居ビル「ワシントンビル」となり〔、現在はドラッグイレブン小倉魚町店やカフェ、事務所等が入居している。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「かねやす百貨店」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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