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飯塚 伊賀七(いいづか いがしち、宝暦12年3月29日〔グレゴリオ暦 1762年4月23日〕 - 天保7年11月17日〔グレゴリオ暦 1836年12月24日〕)は、江戸時代後期の発明家。谷田部藩領の常陸国筑波郡新町村(現:茨城県つくば市谷田部)に生まれ、生涯を谷田部で過ごした。「谷田部にすぎたるもの3つあり、不動並木に広瀬周度、飯塚伊賀七」と呼ばれ、谷田部の象徴的な存在だった〔茨城新聞社 編(1981):1035ページ〕。 名主(庄屋)を務めるかたわら、建築・和算・蘭学などを学び、からくりや和時計を数多く製作した〔茨城県地域史研究会 編(2006):80ページ〕ほか、飛行実験、地図製作、多宝塔や五角堂の設計など多方面で活躍し、村人を驚かせた〔「日研」新聞編集委員会 編(1991):184ページ〕。そのため、からくり伊賀〔つくば書店レポート部 編(2007):47ページ〕〔田村(1979):8ページ〕またはからくり伊賀七の異名を持つ〔。平成時代には「つくばのダ・ヴィンチ」という呼び名も登場している〔つくば市教育委員会 編(2012):2ページ〕。 == 経歴 == 宝暦12年3月29日(グレゴリオ暦:1762年4月23日)に常陸国筑波郡新町村にて、飯塚家16代目として出生する〔田村(1979):1 - 2ページ〕。飯塚家は広い山林や田畑を有し、使用人もいたと考えられ、毎年小作米が蔵に収まりきらないほど納入されたというほどの裕福な家庭であった〔田村(1979):2ページ〕。幼少より工夫や発明に興味を示し、数理に明るかった〔ワークス 編(1997):152ページ〕。以上のように家産にゆとりがあり、科学への関心が高かったことが、後にたくさんの発明を生んだ〔。なお、伊賀七がどのように学問を身に付けたかについては現代に伝わっていないが、関流の数学者が江戸から出張講義に訪れていたことや、谷田部藩医で蘭学を谷田部に導入した広瀬周伯・周度父子と親交があったことが、数学や蘭学の素養を得るきっかけとなったと推測される〔谷田部の歴史編さん委員会 編(1975):121 - 122ページ〕。伊賀七自身、和算研究を行っている〔谷田部の歴史編さん委員会 編(1975):121ページ〕。 きょうだいには姉のヲキワと妹のヲトノがいたが、2人とも短命で、伊賀七が幼いうちに亡くなっている〔。安永元年(1772年)、伊賀七10歳の時〔原文では数え年になっているが、本稿ではすべて満年齢で統一する。〕に干ばつ、翌安永2年(1773年)に飢饉、更に天明4年(1784年)・同7年(1787年)にも飢饉、同6年(1786年)には7月に洪水が発生し、社会が不安定な時代に青年期を過ごした〔田村(1979):3 - 4ページ〕。これらの災害は伊賀七自身が記録していたものであり、その後の記録もほとんどが災害に関するものであることから、名主として深刻に考えていたと思われる〔田村(1979):3 - 6ページ〕。 正確な年代は不明であるが、家督を相続した頃に3歳年下のヲリセと結婚し、寛政年間(1789年 - 1800年)には娘のヲキヨ、ヲサノ、息子の仁治郎を授かるが、3人とも早世してしまう〔田村(1979):6, 84ページ〕。寛政元年4月(グレゴリオ暦:1789年4月 - 5月)には谷田部で熱病が流行し、27歳の伊賀七と名主3名は八坂神社(牛頭天王宮)に7日7晩こもり、悪疫退散を祈願したところ、病は平癒していった〔田村(1979):5ページ〕。なお、若い頃の名主としての活動はこれが唯一残っている記録である〔田村(1979):6ページ〕。 発明家としての才能は、40歳代後半以降に開花した〔石塚 編(1995):54ページ〕。この頃には名主の地位を降りていたという説がある〔一方、71歳になる天保4年(1833年)には他の名主とともに農民の釈放を藩に願い出るなど、名主として活動は続けていたようである〔茨城県教育委員会(1986):85ページ〕。文化6年(1809年)、47歳の時に娘のユキが生まれた〔田村(1979):7ページ〕。 文政9年(1826年)、妻のヲリセが亡くなり、天保5年(1834年)、孫の昌輔が生まれた〔茨城県教育委員会(1986):83ページ〕。 晩年は天保期にあって谷田部藩の財政は厳しいものであった〔つくば書店レポート部 編(2007):48ページ〕。天保4年(1833年)は冷夏であり、8月1日(グレゴリオ暦:1833年9月14日)には強烈な暴風雨が関東地方を襲い、農作物は全滅し、家屋の多くが全半壊の被害を受けた〔茨城県教育委員会(1986):81ページ〕。凶作を見越した伊賀七は打穀機を作り、五角堂内に設置した〔。そして同年12月(グレゴリオ暦:1834年1月)、現在のつくば市茎崎地域にあたる3村の百姓が年貢の引き下げを要求し逮捕されると〔、農民と藩の仲立ちを行なった〔。具体的には農民に対して強訴を思いとどまるように説得し、藩に対しては逮捕した農民の釈放を周辺村の代表として藩庁へ申し出た〔。ただし、71歳の伊賀七が藩庁に赴いたのではなく、飯塚家17代の丁卯司が伊賀七を襲名したと考えることもできる〔。 この頃、谷田部藩領では凶作続きで逃亡する農民が続出した〔。そこで藩政改革のために二宮尊徳が招かれ、天保6年(1835年)に伊賀七宅に宿泊したという話が伝わっている〔。その翌年の天保7年(1836年)も天保の大飢饉は続き、同年11月17日(1836年12月24日)、満74歳で伊賀七は生涯を終えた〔。戒名は「壬午院規矩誉丙申器表居士」で、谷田部西町の道林寺にある飯塚家墓地に入る〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「飯塚伊賀七」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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