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===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ ー : [ちょうおん] (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
きみさらずタワーは、千葉県木更津市の太田山公園にある塔。木更津市にまつわる伝説にちなんだ建築物で、塔の先端に日本武尊(やまとたけるのみこと)と弟橘媛(おとたちばなひめ)の銅像が向かい合って立つ〔ちばぎんコンピューターサービス"きみさらずタワー "infoちば、2009年1月9日(2011年9月25日閲覧。)〕。 1992年(平成4年)3月にふるさと創生事業を導入し、木更津市の市制施行50周年記念に建設された〔鶴岡大治"きみさらずタワーとふるさと創生と基準財政需要額 "2008年1月15日(2011年9月25日閲覧。)〕〔千葉観光web辞典"太田山公園 "(2011年9月25日閲覧。)〕。展望台からは木更津市街のみならず、東京湾まで一望でき〔東京湾観光連盟"東京湾観光連盟/伝説と情緒の街「きさらづ」 "(2011年9月25日閲覧。)〕、対岸に東京タワーや横浜ランドマークタワーも見ることができる〔夜景倶楽部"千葉県木更津市の夜景 "(2011年9月25日閲覧。)〕。千葉県が選定した「ちば眺望100景」の1つに選ばれている〔千葉県教育庁教育振興部文化財課文化財保護室"眺望100景とちば遺産・ちば文化的景観/千葉県 "2010年12月16日(2011年9月26日閲覧。)〕。 == 概要 == 標高44mの太田山山頂に立ち〔ロイヤルヒルズ木更津ビューホテル"木更津市街の代表的で施設の多い公園の太田山公園(おおだやまこうえん) "(2011年9月26日閲覧。)〕、展望所の高さは11.7m、タワーの高さは28mである〔Winriver"きみさらずタワー "(2011年9月25日閲覧。)〕。木更津市の街中にありながら、360度の風景を眺めることが可能で〔、天気が良ければ新宿副都心まで見渡せるという〔イーエスケー"太田山公園 きみさらずタワー "2009年12月18日(2011年9月25日閲覧。)〕。タワーから西方向に見える長須賀地区の水田地帯は、前方後円墳や金鈴塚古墳など巨大な古墳が並んでいた〔千葉県教育庁教育振興部文化財課文化財保護室"眺望100景とちば遺産・ちば文化的景観 "2010年12月16日(2011年9月26日閲覧。)〕(祇園・長須賀古墳群)。 タワーは駐車場から見上げると船の形に見える〔。これは、江戸時代に江戸と木更津の間で物資の往来に用いられた木更津船をイメージして造られたものである〔。剣の形と紹介されることもある〔木更津市観光協会"歴史通り "(2011年9月25日閲覧。)〕。 塔の名前「きみさらず」は、木更津市が市名の由来として広めている日本武尊と弟橘媛の悲恋伝説にちなんでいる〔。この悲恋伝説というのは後世の創作であり、其の出典を詳らかにせず吉田東伍著『大日本地名辞書』は、愈(いよいよ)惑へり〔吉田東伍 『大日本地名辞書 第六巻 坂東』 冨山房、明治36年、 600ページ〕と断罪しているが〔楠原佑介 『日本の地名 由来のウソと真相』 河出書房新社、2015年、 ISBN 978-4-309-22627-9、 66ページ〕、『木更津市史』では、木更津市にとっては捨てがたいとしているものである〔。『日本書紀』は、日本武尊の東征において、相模から上総に渡ろうとした際突然暴風が起こって海が荒れ、弟橘媛が身代りに海に入り暴風が収まった、とする〔宇治谷孟 『日本書紀(上)全現代語訳』 講談社、1988年、 ISBN 4-06-158833-8、 168ページ〕。悲恋伝説では、この時日本武尊は弟橘媛の運命を悲しみ、しばらくこの地を去らなかったことから、後に「君不去」(きみさらず)と名付けられ、木更津に変化した、とされる〔木更津市史編集委員会 編(1972):3ページ〕。しかし、実際には「木更津」の地名の由来は、アイヌ語の「キサラ」(「耳」)にちなむという説やキサゴ貝にちなむという説などが出されており、いまだに確定はしていないが、日本武尊や弟橘媛にちなむわけではない〔木更津市史編集委員会 編(1972):133ページ〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「きみさらずタワー」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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