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きみまち阪周辺の戦い : ミニ英和和英辞書
きみまち阪周辺の戦い[きみまちざかしゅうへんのたたかい]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [しゅう]
 【名詞】 1. circuit 2. lap 3. circumference 4. vicinity 5. Chou (dynasty)
: [へん]
 【名詞】 1. (1) area 2. vicinity 3. (2) side (of triangle, rectangle, etc.) 4. (3) circumstances 
: [いくさ]
 【名詞】 1. war 2. battle 3. campaign 4. fight 
戦い : [たたかい]
 【名詞】 1. battle 2. fight 3. struggle 4. conflict 

きみまち阪周辺の戦い : ウィキペディア日本語版
きみまち阪周辺の戦い[きみまちざかしゅうへんのたたかい]
きみまち阪周辺の戦い(きみまちざかしゅうへんのたたかい)は、1868年(慶応4年)の戊辰戦争の1つの秋田戦争で、南部藩軍が久保田藩大館城を攻略した後の、きみまち阪周辺で行われた戦闘である。なお、当時はきみまち阪という名前はなかった。
南部藩は大館城を攻略し、連戦連勝で久保田藩領にさらに攻め込んだが、この地区の戦いで初めて敗北した。

== 経緯 ==
8月22日、大館城は南部藩によって攻略された。深夜大館城の敗北の情報を受けて、秋田藩庁はただちに新たな部隊を編成し、その旨を総督府の下参謀大山格之助に通知した。総督府では、神宮寺滞在の参謀副役佐賀藩隊長の田村乾太左衛門を大館口官軍総指揮官として、小城藩の援軍500名余りと、23日に船川港に来着した援兵800名を率いて赴任することを命じた。
23日南部軍は休兵。24日になってやっと一部の兵が前進を始める。大館城攻城戦に不参加・無傷だった部隊は、楢山佐渡の本隊、雪沢口から攻め込んだ部隊、大葛村から進入した部隊、後方警備の南部吉兵衛隊など多数あった。しかし、それら部隊を楢山は前進させなかった。雪沢口の足沢内記・三浦五郎左衛門は鬼ヶ城から追い出されて以来戦闘準備を行っており、大館城攻城戦に遅れてしまう。そのため、楢山佐渡から叱責を受け、白沢村の警備を命じられる。これは、津軽藩にそなえたものであると考えられている。大館から出発した南部軍は本道は佐渡隊で綴子村に向い、祐橘隊で板戸村から鷹巣村をめざした。25日佐渡は綴子村に到着した。
25日神宮寺から総督府に出庁した田村は北部方面の総指揮官の命を受け、土崎にいた小城藩監軍藤本恒作・大隊長の田尻宮内と会見し、自分よりも上官が指揮下に入ることについて、「軍中の時は平時と異なる」と田村の指揮に従うことを確認している。田村はその後、早籠で荷上場村に向かった。また、直属の部下生野小十郎を先遣させた。
25日南部軍は坊沢村まで進軍した。26日に今泉村まで進軍したが、久保田軍も激しい抵抗を行い、いったん占領した今泉村に火をつけて前山村まで下がった。また、前線に生野小十郎が到着、前線を調査したところ大砲道の切り開きなど南部軍の攻撃準備が整っていることを把握し、対抗措置として川原に台場を作らせた。それに対し、南部兵は夜の間に薬師森を中心に重厚な陣を構えた。
26日間道から進軍した南部軍は大沢村を占領。さらに、そこからきみまち阪方面に攻め込もうとした。正午頃に佐賀藩兵斥候隊5名が荷上場村に到着、佐竹大和と面接した。佐竹大和は土地の者を案内につけて、状況偵察に出発させた。このわずか5名は大沢村を占領した100名あまりの南部兵を新式銃で圧倒し、南部兵は道をはばまれた。南部兵は一部の兵を敵の側面に移動して攻撃しようとしたため、久保田軍は久保田藩の二階堂鴻之進と共に茱萸岱(現 茱萸木・ぐみのき)に兵を引き警備を行った。南部軍は大沢村に放火して様子をうかがった。
27日明け方、田村と先鋒隊は荷上場村に到着、朝食中に小繋本道を南部軍が進行中という報告を聞くと、食事を中断して「小繋山は本道の要衝である。この得失は勝敗のかかわるところである」と兵卒を鼓舞して進軍を行った。南部軍は薬師山(現 薬師山スキー場)や高津森を占領していた。そこへ小林隼人率いる小隊や佐賀藩兵が協力奮戦して山上の敵を追い落とした。根本源三郎は高津森で苦戦したが、高陣馬の山頂から根本順助・根本幾之助らの部隊が援護射撃をした。
ここで、今までにない破壊力と速射できる大砲が現れ南部軍の軍兵はばたばたと斃れていった。隊長の石亀左馬司は驚き、慌てて兵を散らした。さらに、石亀の兵が「錦旗が見える」と報告した。また「杏葉鍋島紋」も確認した。その状況を見て楢山佐渡は参謀と相談して、地形的に有利な前山村まで撤退してそこで決戦を行おうとした。
28日大沢村の南部兵は茱萸岱を攻撃しようとするも果たせず、山道を越えて今泉村で一時休憩して撤退していった。この日も小繋村の山を占領した南部兵は秋田側の砲撃を受けて、名だたる勇士を失い撤退した。荷上村にはこの日、援軍が相次いで到着した。荷上場村はにわかに大兵集屯地となり、士気が大いに盛り上がった。田村は軍義を開き翌日の総攻撃の取り決めを行った。軍義では明日午前4時に支度をして、午前6時から小繋本道、大沢口間道、米内沢口の3方向から攻め込むことを決定した。
29日早朝は霧が深く、数歩先も見えない天候であった。大沢口の間道には南部軍の進軍を防ぐために、杉の巨木が切り倒されており、それが障害物となって進軍を妨げた。また、南部兵も巨木を切り倒していた。
本道では前山村で朝食中の南部軍を攻撃、南部軍はなすすべ無く大砲2門と小銃3挺を残し陣地を撤退していった。坊沢村に進撃した久保田軍であったが、坊沢村の傍らの山陰から伏兵が現れ、佐賀大砲隊の隊長である村山又兵衛は伏兵の弾を被弾して斃れた。久保田軍の鉄砲隊は米代側沿いに進んだが、田圃の中から南部兵の銃撃を受けた。南部兵は次第に坊沢村に追い詰められた。
大沢村からの間道を進んでいた部隊は、進軍に難儀をしたが、坊沢村の背後に出ることに成功、そこで坊沢村の南部軍を攻撃した。坊沢村の南部軍は本道、米代側筋、背後からの3方面の攻撃に耐えきれず敗走した。坊沢で昼食を取った久保田軍は、勝ちに乗じてさらに進軍し綴子村の南部軍を攻撃、南部軍も必死に反撃するが、夕闇の頃にやっと南部軍は綴子村に火をつけて総撤退した。久保田軍は山野に逃げ隠れていた村人を呼び戻し、消火にあたらせ、全軍が綴子村に宿陣した。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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