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この壁を壊しなさい! : ミニ英和和英辞書
この壁を壊しなさい![かべ]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [かべ]
 【名詞】 1. wall 

この壁を壊しなさい! : ウィキペディア日本語版
この壁を壊しなさい![かべ]

この壁を壊しなさい!( ''Tear down this wall!'' )」は、アメリカ合衆国大統領ロナルド・レーガン1987年6月12日ブランデンブルク門において行われたベルリン750周年記念式典のスピーチで発した言葉である。この言葉はソビエト連邦ミハイル・ゴルバチョフ書記長に向けて発せられ、ベルリンの壁を壊すように要求している。ゴルバチョフはグラスノスチペレストロイカ政策を推進しており、東側諸国の自由を拡大する方針であり、その方針を象徴する行為として壁を壊すようにレーガンは呼びかけた。レーガンの演説のうち最も有名なものであるが、草稿が起草された時点ではこのフレーズはソ連を刺激すると見られており、演説からの削除も検討された。この演説の2年後にベルリンの壁は崩壊するが、ベルリンの壁崩壊との関係については論者の間で意見が分かれている。
== 背景 ==
第二次世界大戦後、ドイツアメリカイギリスフランス・ソ連により占領統治された。ドイツの非ナチ化、産業の民主化そして復興支援を行っていたアメリカは、ドイツを脅威ととらえ弱体化を狙うフランス・ソ連とは対立をしていた。1940年代後半には以前から存在したソ連に対する警戒感が一層強くなり、特に1948年のチェコスロバキアにおける共産主義政権樹立は、ソ連の勢力拡大に対する危機感を一気に広めることとなった。ベルリン西側地区の合同に消極的であったフランスも、これを契機に方針を改めることとなり、1949年9月にドイツ連邦共和国(西ドイツ)が建国された。翌10月にはそれに応じてドイツ民主共和国(東ドイツ)の建国が宣言された。1961年には東ベルリンから西ベルリンへの市民流出が急増し、東ドイツはこれに対処するためベルリンの壁を建造した。ベルリンの壁は東西分断、冷戦の象徴とみなされるようになった。
第40代アメリカ合衆国大統領ロナルド・レーガンは「強いアメリカの復活」を志向し、ソ連を「悪の帝国」と呼んだ。デタントは終焉し、第二次冷戦期が始まった。レーガン政権は軍備拡張と対ソ強硬路線を推し進めていった。一方、冷戦構造による軍備拡張のための経済的負担は大きく、特にソ連は軍縮および対西側諸国との関係改善を模索していた。1985年にはミハイル・ゴルバチョフが書記長に就任し、ペレストロイカグラスノスチといった自由主義を一部取り入れた改革を行っていった。また、対外的には新思考外交を打ち出し、国際環境の改善をもくろんでいた。ソ連は中距離核戦力(INF)の一方的な配備凍結と、核実験の停止を発表するなど平和攻勢を仕掛け、これは1985年11月に行われた7年ぶりの米ソ首脳会談へと結実した。財政赤字(双子の赤字)による軍拡への批判も多かったレーガン政権は、強硬路線から平和追求路線へと大きく方針を変更していった。
1987年、イタリアヴェネツィアで行われたG7サミット(先進国首脳会議)に出席した後、レーガンはベルリンを訪れた。レーガンが訪問する前日、5万人の人間が米大統領の訪問に抗議運動を行った。訪問当日にはこれらのデモ隊は排除され、特に地区の左派は標的とされ、ベルリン地下鉄1号線が閉鎖されるなど、徹底的に排除された。
「この壁を壊しなさい」という有名なフレーズは、スピーチの起草時には、この言葉を含めるかどうかスタッフ内でも大きな論争となった。東西の緊張を高める、ないしはレーガンと良い関係を築いてきたゴルバチョフを困惑させる可能性があり、関係を台無しにしてしまうかもしれないとして、このフレーズをスピーチに含めることに反対するものもいた。一方、スピーチライターのピーター・ロビンソンは西ドイツで調査を行い、西ベルリンの住民の多くは壁に反対しているとの感触を得ていた。スピーチ中、レーガンが壁の破壊を要求することについて、ほとんど支持は得られていなかったが、ロビンソンはこのフレーズを残すことに決めた。1987年5月18日、レーガンは演説内容についてスピーチライターたちとミーティングを行い「すばらしい草案だ(I thought it was a good, solid draft.)」と述べた。大統領首席補佐官ハワード・ベーカーは大統領のスピーチとしてひどく不適当だと述べ、国家安全保障担当大統領補佐官コリン・パウエルもそれに同意した。最終決定はベルリンに向かう直前にレーガンによって下された。レーガンはこの文案を気に入り、「このままにしておこう(I think we'll leave it in.)」と述べた。
このフレーズの起源についても異なる説がある。チーフ・スピーチライターであったアンソニー・R・ドランの証言では、これは元々レーガンが起草した文章であるという。ウォール・ストリート・ジャーナルの2009年11月号に掲載された記事ではロビンソンが起草する以前、大統領執務室で行われたミーティング中にレーガン自身が思いついたと述べられている。彼は当時の自身とロビンソンの反応を鮮明に記録している。ロビンソンとドランの異なる証言については、お互いにウォール・ストリート・ジャーナル上で反論を行っている。
壁を壊すことについて発言するのは特に目新しいものではなく、実際レーガン自身がこの演説以前の1982年と1986年の2度にわたってスピーチを行っている。以前と異なるのは、ソ連の政治指導者であるゴルバチョフに壁を壊すことを要請している点である〔。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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