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『この道をゆけば ⁄ オフ・コース・ラウンド 2』(このみちをゆけば オフ・コース・ラウンド 2)は、1974年5月5日に発売されたオフコース(当時の表記はオフ・コース)通算2作目のオリジナルアルバム。 == 解説 == 1973年9月9日、日仏会館で行われたコンサート“グリーン・ラヴ”を終えたオフ・コースは11月、早くもセカンド・アルバムの制作に入った。レコーディング開始時、できていたのは3曲だけで、曲作りと平行して断続的にレコーディングを行うことになった。レコーディング期間は7か月間となっているが何度も中断し、スタジオ使用は150時間に満たず、その結果2人でアレンジを詰める作業が出来ず作曲者自身が手がけるという完全な分担作業で行われた。バックトラックを2時間に1曲録るペースで進められ、後になってからの録り直しや差し替えもほとんど行われず、時間に追われて終了した。 レコーディングにはセッション・ミュージシャンを起用、エレキギターを取り入れるなど、新しい試みも積極的に行われた。前作『僕の贈りもの』〔『僕の贈りもの』 1973年6月5日発売 EXPRESS ⁄ 東芝音楽工業 LP:ETP-8258〕では青木望に任せたストリングス・アレンジも、今回はすべて自分達で行った。弦の音を、ピアノやギターの音を頼りに頭に描いてアレンジを組み立て、書き上げた譜面の最終チェックを青木に依頼した。「夜中に青木さんの家へ行くと、忙しいのによく見てくれて、全部チェックしてくれた。初めてスタジオで弦の音を聴いた時、ちゃんと合っていて、“ああ、これでいいんだ”と思った」〔オフコース・ファミリー著『はじめの一歩 1』(サンリオ)P152~158、1983年8月15日初版発行〕という。 アルバムの発売は当初、1974年2月が予定されていたがその後、ステージのMCで「2月頃にと思っていたのですが、3月になりそうです」〔ラジオ日本「ヤングヤングミュージック・イン・テクニクス」1973年11月30日〕「なかなか思うように出来なくて、4月になるかもしれません」〔TBSラジオ「ヤングタウン東京」1973年12月8日〕「シングルが4月発売に決まりまして、LPの方は5月か、あるいは1年振りに6月ということに…」〔「サブ祭」1974年1月27日 神田共立講堂〕「新しいアルバムが、5月5日のこどもの日に出ることに決まりました」〔文化放送「フォークタウン」1974年2月23日渋谷公会堂〕〔「チャリティショウ」1974年2月23日牛込公会堂〕と幾度も発売日の変更が伝えられたが、3月10日にレコーディングが終了した。 B-4「のがすなチャンスを」は後に鈴木がアルバム『BeSide』〔『BeSide』 1996年10月23日発売 ZIG ZAG ⁄ BMG VICTOR CD:BVCR-772〕にてセルフ・カヴァーした。解説で鈴木は「いつも詞と曲は別々にできるのだが、一応長い音楽活動の中でたった一曲、この曲だけ詞、曲同時に出来た。派手なイメージでオフコースのステージは演奏しすぎたので、一人になってからはジョーク以外にやったことはない」と書いている。 A-5「別れの情景(1)」とB-4「のがすなチャンスを」は後にベスト・アルバム『SELECTION 1973-78』〔『SELECTION 1973-78』 1978年5月5日発売 EXPRESS ⁄ TOSHIBA EMI LP:ETP-80015〕に収録されたが、「のがすなチャンスを」は1978年2月25日仙台市民公会堂で収録されたライブ・ヴァージョンとなっている。 小田よりも一足早くプロのミュージシャンとして活動していく決断をした鈴木は、音楽教室の講座に参加してアレンジを勉強するなど、本格的なプロとしてのキャリアをスタートさせていた。また、小田は幼少の頃にバイオリンを習っていたことから譜面が読めることもあり、この時期には“中性的な声、初見がきく、短時間でOKが出せる”ことが好条件となって、CMソングの制作や他アーティストのレコーディングにコーラスで参加するなど、グループ以外の活動も増え、学園祭の依頼もくるようになった。 アルバムのジャケット写真は東京・赤坂迎賓館の正門前で撮影したものが使われている。ジャケット上部の“GOIN' MY WAY”はレコード会社が勝手につけたという。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「この道をゆけば」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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