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たのしい知識 : ミニ英和和英辞書
たのしい知識[ - ちしき]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

知識 : [ちしき]
 【名詞】 1. knowledge 2. information 

たのしい知識 : ウィキペディア日本語版
たのしい知識[ - ちしき]

たのしい知識』( - ちしき仏語''Le Gai Savoir'')は、1967年に撮影され1968年に完成した、ジャン=リュック・ゴダール監督によるフランス西ドイツ合作の映画である。五月革命より前に撮影が始まり、革命後に完成した。ORTFとの共同製作で、一度完成したものの同局に拒絶され、1969年に劇場で上映されたが検閲により禁止された。日本では2012年にオーディトリウム渋谷で初公開されている〔ジャン=リュック・ゴダール+ジガ・ヴェルトフ集団 WEEK 〕。長らく日本未公開であったため邦題は定まらず、『楽しい科学』(たのしいかがく)とも。'Le Gai Savoir'')は、1967年に撮影され1968年に完成した、ジャン=リュック・ゴダール監督によるフランス西ドイツ合作の映画である。五月革命より前に撮影が始まり、革命後に完成した。ORTFとの共同製作で、一度完成したものの同局に拒絶され、1969年に劇場で上映されたが検閲により禁止された。日本では2012年にオーディトリウム渋谷で初公開されている〔ジャン=リュック・ゴダール+ジガ・ヴェルトフ集団 WEEK 〕。長らく日本未公開であったため邦題は定まらず、『楽しい科学』(たのしいかがく)とも。')は、1967年に撮影され1968年に完成した、ジャン=リュック・ゴダール監督によるフランス西ドイツ合作の映画である。五月革命より前に撮影が始まり、革命後に完成した。ORTFとの共同製作で、一度完成したものの同局に拒絶され、1969年に劇場で上映されたが検閲により禁止された。日本では2012年にオーディトリウム渋谷で初公開されている〔ジャン=リュック・ゴダール+ジガ・ヴェルトフ集団 WEEK 〕。長らく日本未公開であったため邦題は定まらず、『楽しい科学』(たのしいかがく)とも。
== 略歴・概要 ==
アンナ・カリーナとの破局を経験した1965年、ゴダールは、冬のパリで『男性・女性』(1966年)を撮影し、シネマ・ヴェリテ的手法によって顕わにした若い世代の考えに興味を抱く。1966年に『メイド・イン・USA』および『未来展望』(オムニバス『愛すべき女・女たち』の一篇)を撮影し、この2作を最後にカリーナを主演にすえることを断念したゴダールは、ドキュメンタリー作家クリス・マルケルの呼びかけによるオムニバス映画『ベトナムから遠く離れて』のために『カメラ・アイ』を撮り、よりいっそうのシネマ・ヴェリテの実践と、若い世代の思想、新しいマルクス主義である毛沢東思想に傾倒してゆく。
1967年に出会ったマオイストシネフィルの青年ジャン=ピエール・ゴラン(当時24歳)との会話から生み出されたのが、同年早々に撮り始めた『中国女』、そして本作『たのしい知識』である。ゴダールは、同年夏にはモデル出身のミレイユ・ダルクと『ウイークエンド』を撮るが、『中国女』で主役に抜擢した当時まだ20歳のアンヌ・ヴィアゼムスキーと同1967年7月22日に結婚、同作が8月30日にフランスで公開され、時期を同じくして「商業映画との決別宣言」を発表する。『男性・女性』、『中国女』を通じて知り合った10歳以上若い仲間である、ヴィアゼムスキー、ジャン=ピエール・レオジュリエット・ベルトとゴダールで、その年の秋、本作の撮影が開始された。
フランス放送協会からの依頼で始まったこの企画は、当初「ジャン=ジャック・ルソー『エミール』の映画化」であったが、非常にルーズに下敷きにしただけであり、また、フリードリッヒ・ニーチェの著作と同じタイトル(''Die fröhliche Wissenschaft (la gaya scienza)''の仏題)であるが直接の関係はなく、むしろヴァルター・ベンヤミンの『パサージュ論』の影響を指摘される〔Le Gai Savoir (英語)参照。〕ような作品となった。
レオの演じる「エミール・ルソー」は、もちろんルソーの『エミール』に登場する少年の名から、ベルトの演じる「パトリシア・ルムンバ」の名は、1960年ベルギーから独立したコンゴ民主共和国初代首相となり翌1961年暗殺された、アフリカ民族主義指導者パトリス・ルムンバからとったものである。なお劇中で使用されるキューバ革命歌『7月26日の行進』は、1953年7月26日フィデル・カストロら反バティスタの若者の反乱にちなんだ曲である(キューバ革命)。
プロットのない映像言語の探索が行われた本作は、1968年に完成するも、延々と暗黒の画面がつづくなどあまりに映画的でないとの理由〔『ゴダールの神話』(雑誌「現代思想」臨時増刊号、青土社1995年10月20日 ISBN 4791719921)の巻末「フィルモ・ヴィデオグラフィ」の中条省平の記述を参照。〕で発注元のテレビ局から拒絶され、放送されず、契約違反その他で訴訟を起こされ〔『ゴダールの神話』のp.174から始まる、山田宏一の『ゴダールの決別』を参照。〕、出資からも下りられてしまう。結果的にミュンヘンバヴァリア・フィルムが作品を買収〔、翌1969年第19回ベルリン国際映画祭コンペティション部門で上映された。
本作の製作開始から完成のあいだのゴダールは、1968年2月にはシネマテーク・フランセーズ館長のアンリ・ラングロワが解雇され、大衆的に闘って闘争に勝利し、同年5月にはいわゆる「五月革命」がパリに起き、ゴダールはレオとともにカンヌにのりこみ、クロード・ルルーシュフランソワ・トリュフォーらと第21回カンヌ国際映画祭を粉砕した。同年6月にはゴランらと結成した「ジガ・ヴェルトフ集団」(1968年 - 1972年)の第一作『あたりまえの映画』を撮影、11月にはその直後にD・A・ペネベイカーと共同監督で『ワン・アメリカン・ムービー』をニューヨークで撮る。翌1969年から1970年にかけても、カナダイギリスロンドン)、チェコスロヴァキアイタリア、果てはパレスティナまで〔政治映画の撮影に飛び回る、ゴダールの日々が始まる。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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