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でりい丸(でりいまる)は、大阪商船が1922年に建造した貨客船である。太平洋戦争中に日本海軍に特設砲艦として徴用され、一般商船を装って敵潜水艦に逆襲する囮作戦へ投入されたがアメリカの潜水艦ソードフィッシュの雷撃により撃沈された。文献によっては「デリー丸」と記載されていることがあるが、登録船名はひらがな表記である。 == 船歴 == 本船は、大阪商船のバンコク・スラバヤ航路用貨客船として、1922年(大正11年)に大阪鉄工所因島工場で進水した。当初は予定航路に就航したが、1926年(大正15年)に他社との競争に敗れた大阪商船はバンコク・スラバヤ線から撤退する。そのため、1927年(昭和2年)に大阪商船が台湾総督府命令航路として運航中の高雄港・広東線へ配船替えとなった。高雄・広東航路では海賊の襲撃を複数回受け、「またもやられたでりい丸」と話題になった〔野間(2002年)、184-185頁。〕。 1937年(昭和12年)7月に日中戦争が勃発すると、「でりい丸」は日本海軍により徴用された。同年10月末に大阪商船から海軍へ引き渡され、同年11月23日までの播磨造船所における工事で特設砲艦として改装された。青島占領や廈門攻略作戦(1938年5月)、広東作戦(1938年10月)などに参加し、艦砲射撃や海上封鎖に従事した〔。 1939年(昭和14年)中に徴用解除となった「でりい丸」は商用航海に復帰。1941年(昭和16年)8月には、南部仏印進駐で重要航路となったサイゴン・バンコクと日本を結ぶ線に就航している〔。 1941年後半、日米関係の極度の悪化を受けた開戦準備が進み、同年11月18日付けで「でりい丸」は再び日本海軍により徴用された〔海軍省兵備局 『昭和一八・六・一現在 徴傭船舶名簿』 JACAR Ref.C08050008200、画像2枚目。〕。そして、太平洋戦争勃発直後の同年12月10日付けで特設砲艦籍へ編入、武装の搭載など所要の改装が施される。馬公警備府に配備され、ルソン島で拿捕されたアメリカ貨物船「セタス」(Cetus)の回航や、陸軍部隊を乗せた護送船団の護衛など台湾周辺で行動した。1942年(昭和17年)4月10日に新設の第一海上護衛隊へ編入され、船団護衛任務でシンガポールまで行動するが、同年7月20日には横須賀鎮守府部隊へ異動となった。横須賀鎮守府では日本近海で船団護衛に従事した。 1943年(昭和18年)12月からアメリカ海軍潜水艦による熊野灘や遠州灘での通商破壊被害が続出したのに対抗し、日本海軍は、囮船を使って敵潜水艦を誘い出して撃沈する作戦を計画した〔『横鎮乙作戦支隊(でりい丸・沢風・掃二十三・駆潜五〇)戦斗詳報』、画像4-6枚目。〕。そして、「でりい丸」が囮船に選ばれた。「でりい丸」は、防水隔壁の増設、敵魚雷を食い止める〔『横鎮乙作戦支隊(でりい丸・沢風・掃二十三・駆潜五〇)戦斗詳報』、画像19枚目。〕、敵魚雷の磁気信管を誤作動させるための磁力発生装置搭載などの改装工事を佐世保で施された〔大井(2001年)、186-189頁。〕。大砲や爆雷、水中聴音機・水中探信儀などの対潜兵装も搭載されていたが、外見は非武装の商船に見えるよう擬装された〔。 囮船に改装された「でりい丸」は、引き続き横須賀鎮守府部隊に属して1944年(昭和19年)1月に囮船として初めての出撃をした。しかし、後述のように1月16日に八丈島付近でアメリカ潜水艦の奇襲を受け、悪天候も重なって沈没した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「でりい丸」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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