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===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ 何 : [なん] 1. (int,n) what ・ 何も : [なにも] 1. (adv,exp) nothing ・ では : [では] 【名詞】 1. chance of going out 2. opportunity (to succeed) 3. moment of departure 4. beginning of work ・ 何か : [なにか] 1. (exp) something
「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」(なぜなにもないのではなく、なにかがあるのか、英語:Why is there something rather than nothing?)〔この問いの英語表現 "Why is there something rather than nothing?" はある程度 定まったものとして繰り返し使用されているが、日本語表現にはかなりばらつきがある。以下にこの問いの日本語表現を、いくつか列挙する。 * 「なぜ何も無いのではなく何かが在るのか?」 永井均 (永井均 (2008), p.24) * 「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか」 三浦俊彦 (三浦俊彦 (2006)) * 「なぜ何もないのではなく、ものがあるのか?」 戸田山和久 (ノージック (1997)) * 「なぜ何もないのではなく、何かが存在するのか。」 木田元 (木田元 (1993), p.78) * 「なぜ、そもそも(無ではなく)何かが存在するのか?」 菅沼聡 (菅沼聡(2004), p.179 ) * 「なぜ無ではなくて何かがあるのか」 吉田健太郎 (吉田健太郎(2010), p.55) * 「なぜ無ではなく、何かがあるのか」 山内志朗(山内志朗 (2003) pp. 43-44) * 「なぜ、全く何もないのではなくて、何かがあるのか?」 入不二基義 (入不二 (2011)) * 「まったく何もないのではなく、何かがあるのはなぜか?」 小山虎 (コニー (2009)) * 「なぜ存在者があるのか、そしてむしろ無ではないのか」 古東哲明 (古東哲明 (2002a), p.37) * 「なぜ一体、存在者があるのか、そして、むしろ無があるのではないのか?」 川原栄峰 (ハイデッガー (1994), p.11, pp.336-340) * 「そもそもなぜ存在者が存在するのであって、何ものも存在しないのではないのか」 雨宮民雄 (雨宮民雄 (2002), p.677) ちなみにライプニッツの使用したフランス語表現は "Pourquoi y a-t-il quelque chose plutôt que rien?"(『理性に基づく自然と恩寵の原理』)、ハイデガーの使用したドイツ語表現は "Warum ist überhaupt Seiendes und nicht vielmehr Nichts?"(『形而上学入門』)、 である。 〕は哲学の一分野である形而上学の領域で議論される有名な問題の一つ。神学や宗教哲学、また宇宙論の領域などでも議論される。なぜ「無」ではなく、「何かが存在する」のか、その理由、根拠を問う問題。別の形、 * 「なぜ宇宙があるのか?(Why is there a universe?)」 * 「なぜ世界があるのか?(Why is there a world?)」 * 「なぜ無ではないのか?(Why not nothing?)」 などの形でも問われる〔哲学者たちが「何かが存在する」といった一見奇妙な表現をキーワードとして使用していることには、それなりに理由がある。それは「宇宙が存在する」、「世界が存在する」といった表現は、厳密な議論を行う際にいくつか問題を引き起こすためである。問題とは主に次のようなものである。 * 一つ目は世界や宇宙という言葉が二種類の意味で使われることである。二種類の意味とは、まず「私たちの科学的な知識の及ぶ範囲の全体」といった意味、そして次に「存在するもの全て」という意味である。こうした違いがはっきりと問題となるのは、たとえば「神様が宇宙を作った」といった表現が使われる場合である。これは前者の意味では妥当な表現だが、しかし哲学者が知りたいのは、その対象が宇宙なのであれ、神様なのであれ、何なのであれ、そもそもなぜ何かが存在するのかという点であることからすると、混乱を生みやすい表現となっている。こうした所から、この問いが存在に関する問いであることをはっきりさせる意味で、「なぜ何かがあるのか」という問い方をすることは一定の有効性を持っている(英語圏では world, universe の先頭の一字を大文字にして World, Universe と書くことで、それが「存在するもの全て」を意味しているとする場合がある。しかし必ずしも一般的と言える方法とまではなっていない)。 * 二つ目に「宇宙が存在する」、「世界が存在する」という点について、必ずしも哲学者全員が簡単に同意するとは限らない、という点がある。有名な例で言えば、デカルトは疑い得ないものを探して懐疑を繰り返した果てに、確実に存在すると言えるのは、「何があるのか?」と疑い続けているこの私の存在だけだ、という思考を行った。いわゆる「我思う、ゆえに我あり」である。他にどういった懐疑があり得るかについては#概要の節にいくつか例示がある。 * 三つ目に「全体が存在する」という主張に、集合論的な観点からしばしば疑義が差し挟まれる、という問題がある。ラッセルのパラドックスで知られるように、必ずしもすべての集合について安易にそれが存在する、と言えない状況が数学的な様々なパラドックスの知識を背景として共有されている。こうした所から「世界が存在する」といった表現は、まずそこで引っ掛かる人が出てくるという問題がある。 以上の当問題における世界、宇宙といった用語の扱いの説明は、菅沼聡 (2000) 「世界全体は存在するか」を参考とした。〕。 物事の根拠を「なぜ」と繰り返し問い続けることでやがて現れる問いであることから「究極のなぜの問い(The Ultimate Why Question)」、またはより簡潔に「究極の問い」とも呼ばれる〔菅沼聡 (2004)〕。解答することが著しく困難であることから「存在の謎」(The riddle of existence)とも言われる〔Rescher (1984)〕。存在に関する問いであることから「存在への問い(The question of being)」とも言う。哲学者たちはこの問いを、あらゆる問いの中でもっとも根源的な問い・第一の問いであるとしばしば言う。同時に混乱を呼ぶ悪名高き問い、解答不可能な奇問、愚かな問い、また問うことが危険な問いである〔20世紀のアメリカの哲学者ロバート・ノージックはユダヤ教の聖典タルムードの第一部ミシュナーの一節を引き、そこにこうした問いを問うことの危険性が示されていると思われると記している。次のような一節である。 「上には何があるか、下には何があるか、前には何があるか、後には何があるか。この四つのことがらについて思いをめぐらすもの、その者はこの世に生を受けぬほうがましであっただろう」(典礼書アッガダー2:1、戸田山和久(訳)) ノージック (1997) p.171〕〔以下、Inwagen (2006) の冒頭文より。「表題の問いはあらゆる問いの中でも、もっとも深遠で困難なものだとされている。何人かの論者は実際、この問いが心を引き裂きかねない危険なものだと述べてきた。だが恐慌に陥らなければ、われわれはこの問いをいくらか推し進めることができる。」〕、などとも言われる。 存在論のテーマは突き詰めると「何が在るのか」と「なぜ在るのか」の二つに問いに収束していくとも言われるが、この問いはこうした場合における「なぜ在るのか」にあたる問いである〔雨宮民雄 (2002), p.677〕。 == 概要 == この問いの前提である「何かがある」ことを否定することで問いから逃れることはおよそ困難である。たとえば実在するものはすべて意識的なものだけであるとする観念論的な立場や、または世界は私の見ている夢のようなものであるとする独我論的な立場などを取ってみても、その意識や夢にあたる「何か」があることは依然として認めざるを得ない。映画「マトリックス」のように自分は水槽の中の脳である、とか、またこの世界の全ては未来のスーパーコンピュータの中で行われているシミュレーション結果に過ぎないというシミュレーション仮説のような極端な考え方をしてみても、そこには水槽や脳や何らかの計算機が在る。仮にそうしたものの存在をすべてを否定してみたとしても、ある種のシミュレーション結果だけはどうしても残る。シミュレーション結果の存在さえ否定してみたとしても、そこには「何もない」「まったく何もないんだ」というその考え、思考と呼ぶべきようなものが、最後までどうしても残ることとなる。こうして「何が在るのか」という点については色々な答え方が可能とはいえ、「まったく何もない」と主張してこの問いを却下することがまず困難となっている。 次に、物理学の領域ではビッグバンにより宇宙が始まったという説明がなされることがあるが、こうした説明もまた答えとはならない。なぜなら問いの形が「なぜ何もなかったのでなく、ビッグバンがあったのか」に置き換わるだけだからである。ビッグバンが真空の量子揺らぎから発生したといった説明もまた同様である。「なぜ何もなかったのではなく、量子力学の法則にしたがって揺らぐような真空があったのか」、もしくは「なぜ量子力学の法則などという自然法則があったのか」こうした形に問いが置き換わるだけである。同じように何か超越的な存在、たとえば神様を持ち出し、それが世界を作った、と説明しても話は同じである。「なぜ何もなかったのではなく、神様がいたのか」、こう問いが置き換わる。こうした例を見てわかるように、この問いは存在の根拠についてより基盤的なレベルの原理でそれを説明してみても、または因果連鎖を過去に遡ることによって答えようとしてみても、もっと基盤的な何かへ、もっと基盤的な何かへ、またはもっと過去へ、もっと過去へ、無限後退が生じるだけで、そこから答えは得られることはないだろうと考えられている。 時間の始まりの問題を避けるために永続する宇宙、永遠の時間を想定してみても、解決は得られない。「なぜ何もないのではなく、永遠に続く宇宙があるのか」、こうした形に問いが置き換わるだけで終わる。 この問いは歴史学や考古学のように過去の歴史を問う問題ではなく、あくまで「なぜ何かがあるのか」を問う問題である。またしばしば同時に扱われる関連した問い「なぜ世界はこのようになっているのか」というこの世界のあり方の根拠を問う問題とも区別される。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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