|
===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。
『のらくろ』は、田河水泡の漫画作品、その主人公である野良犬。およびそれを原作としたアニメ作品 == 概要 == 大日本雄辯會講談社(現・講談社)の雑誌「少年倶楽部」にて1931年から連載され、戦前の漫画としては稀有な長期連載〔ただし、日中戦争中に一時連載の中断を挟む。〕となっていたが、1941年に内務省の役人から「この戦時中に漫画などというふざけたものは掲載を許さん」というクレームが入り、編集長がやむなく打ち切りにした〔少年倶楽部文庫16 『のらくろ漫画集(1)』(講談社、1975年)P.195.-198 当時の「少年倶楽部」編集長・加藤謙一によるあとがき〕。戦後も潮書房の雑誌「丸」に探偵の物語として1981年まで執筆した。また、田河の編集による「漫画トランク」(東京漫画出版社刊・昭和22年12月20日発行)にも掲載されたのをはじめ、後述のように戦後のリバイバルブーム期に講談社と普通社とろまんす社から復刻連載版と単行本版が発行あるいは刊行された〔講談社のものは後述のように復刻加筆版。〕。なお、最も早い大日本雄辯會講談社版『のらくろ二等兵』再録版は連載最終話〔次号より昇進し『のらくろ上等兵』となる為に二等兵時代の物語としては最終話。〕と同時に同社発行の初期作品集「漫画常設館」誌にて収録され、初期の兵制改変に伴い当時の新規の兵制に合わせて復刻加筆されている。 日本の漫画の萌芽期に人気を獲得。当時は、雑誌だけにとどまらず子供向けの商品には次々にのらくろが登場した。現代のキャラクター商品のはしりともいえる「のらくろ墨」、楽器「のらくろハーモニカ」、筆箱、幼児用の玩具、ハンガーなどが発売された。著作権は、このような第二次的な商品にまでは法的規制の及ばない時代で、ほとんど原作者や出版社の無許諾商品である。これに関して原作者の田河は「ええじゃないですか、みなさんよろこんで使ってくれるんだから」と鷹揚なものだった〔キャラクター商品の権利関係で著作権については日本では戦前は法的には否定的な時代であり(明治三十二年法律第三十九号ではキャラクター自体には登録の方法が無かった)、戦後の昭和時代でも問題となる場合はほとんどが他業者と意匠登録したものが競合した場合であった。商業的なメリットとして注目されるのは、アメリカNBCと日本のTBSとの間で(当時としては巨額の)契約が行われた、虫プロダクションの『鉄腕アトム』で派生的にアメリカ法によって米スポンサーからもたらされた放映権以外の商品への排他的な許諾料からである。〕。 1989年に漫画執筆権を弟子の「のらくろトリオ」(山根青鬼、山根赤鬼、永田竹丸)に継承した。田河と山根赤鬼の死後も「のらくろトリオ」によって新作が発表され続けているが、田河の作品よりギャグ漫画色がどちらかといえば強い。 初出から80年以上を経た今(2014年現在)でもキャラクター関連商品等が多数販売されている。 なお、弟子の長谷川町子の『サザエさん』と同様に、『中部日本新聞』の夕刊に昭和31年1月4日~同年6月29日の間掲載された事がある。こちらの作品の題名も『のらくろ』だが外伝に位置し、のらくろの息子(小学2年〔連載第89回にて言及される。〕)が登場してシンを張っていて、親の方と同じ呼ばれ方で登場する。また、戦後に描かれたのらくろ正伝終盤の伏線が張られている(母親の姿など)。のらくろの息子は掲載誌の関連もあり中日ドラゴンズが大好きな野球少年となっている。親父ののらくろに絡む話もあり〔連載第119回には正伝本編の緋鯉食中毒事件が蒸し返される。〕、ブルとデカは重要な役回りで登場する。後に正伝『のらくろ中隊長』(昭和36年1月号~昭和43年10月号「丸」連載、昭和38年12月号にて一時中断し『のらくろの息子』をはさんで昭和42年3月号から再開している)にて赤子にて登場した。正伝『のらくろの息子』(昭和41年2月号~昭和42年2月号「丸」連載。第4回より改題、『のらくろの息子デス』に変更)に登場するデスはこの息子の後年の姿。また、デスは「ぼくら〔「ぼくら」は「少年倶楽部」の実質上の後継誌となる。〕(後の『ぼくらマガジン』→『テレビマガジン』・講談社)」版『まんが自衛隊 のらくろ二等兵』(昭和38年6月号~12月号)の主人公(時代的には『ぼくら』読者層と同年齢であるので新聞版の上、『~"デス"』の下の年齢の頃)でもある。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「のらくろ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|