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『はじまりのみち』は、2013年6月1日公開の日本映画。松竹株式会社による、映画監督・木下惠介生誕100年プロジェクトの一つとして製作された。木下の第二次世界大戦中の実話を題材に〔ただし、監督の原によると、事実をベースにはしているがストーリーの多くは創作である(<はじまりのみち>原恵一監督に聞く「迷ったときには木下恵介監督流の過激な選択をした - まんたんウェブ(2013年6月6日))。〕、映画『陸軍』制作時の背景を交えながら彼の母との家族愛を描く。 『クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲』などの作品でアニメ監督として著名な原恵一による、実写映画初監督作品である〔。木下惠介を演じる主演俳優は加瀬亮。 == あらすじ == 1945年、木下惠介は前年陸軍省の依頼で監督した映画『陸軍』のラストシーンが「女々しい」とクレームをつけられ、次回作の企画をキャンセルされた。自らの信じる映画が撮れないことに落胆した惠介は所属していた松竹に辞表を提出、職もないまま郷里の浜松市に戻る。空襲に見舞われた実家から郊外の気賀で療養中の母・たまの居所へと移った惠介は、たまに「これからは木下惠介から木下正吉(本名)に戻る」と告げる。空襲の激化に伴い、木下家では山間の気多村勝坂に住む親族を頼って疎開することになる。しかし、そのためにはたまを安静に連れて行く必要があった。惠介は、たまをバスには乗せられないと、リヤカーに乗せて運ぶことを提案する。疎開先までは約60kmの距離があり、途中の気田からは森林鉄道のトロッコが利用できるとはいえ、そこまでは峠道を含む険しい道のりである。家族からは懸念する声も上がるが、提案は実行に移されることとなった。たまを運ぶ惠介と兄・敏三、それに荷物を運ぶために雇われた若い便利屋の4人は夜中に気賀を出発し、疎開先へと向かった。 途中の休憩時に「(惠介が)前は映画監督をしていた」と言いかけた敏三を惠介は遮ったが、便利屋はそれを「映画館で働いていた」と勘違いする。道中、雨に見舞われても、敏三と惠介は雨具も付けずにリヤカーを動かし続けた。長い山道でリヤカーの病人を運ぶことを訝っていた便利屋は、その頑なさに呆れながらもついて行く。夕方、一行は宿泊予定の気田に到着し、苦労の末に宿を見つける。惠介はたまの顔の汚れをぬぐい、自ら背負って宿の二階へと運び上げた。しかし、トロッコは翌々日にならないと動かないとわかり、宿でもう一日を過ごすことになる。やむなく敏三は便利屋に明後日の同行を依頼した。便利屋は当初ここで帰ると言い張ったが、宿屋のふたりの若い娘と親しくなって前言を翻した。 翌日、敏三の勧めで惠介は外出する。散歩しながら出征兵士を見送る小学生とその教師を眺め、やがて広い河原に出る。その傍らに便利屋がやってきた。便利屋は、リヤカーで母を運び抜いた惠介を見直した、孝行したくなるいい親だったのだろうと話した。そして、また映画館で働けたら『陸軍』を見ることを薦め、あのラストシーンはよかった、いい映画だった、親の気持ちがよく伝わってきたと述べる。惠介は「息子に立派に死んでこいという母親はいない」と語り、涙を浮かべた。 次の日、トロッコに乗り継ぎ、一行は無事に疎開先に到着する。たまは惠介を呼んで紙に書いた言伝を手渡す。そこには、あなたはここにいるべきではない、また木下惠介の映画が見たい、戦争はいつか終わるのだから木下正吉から木下惠介に戻って映画を撮りなさいといった内容が記されていた。それを読んだ惠介は、映画から離れようとしても、映画のことが頭から離れなかったという思いをたまに語るのだった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「はじまりのみち」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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