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ひかりごけ事件(ひかりごけじけん)は、1944年5月に、現在の北海道目梨郡羅臼町で発覚した死体損壊事件。日本陸軍の徴用船が難破し、真冬の知床岬に食料もない極限状態に置かれた船長が、仲間の船員の遺体を食べて生き延びたという事件である。 食人が公に明らかになった事件は歴史上たびたびみられるが、この事件はそれにより刑を科せられた初めての事件とされている。一般には「唯一裁判で裁かれた食人事件」といわれるが、日本の刑法には食人に関する規定がないため、釧路地裁にて死体損壊事件として処理された。 この名称は、この事件を題材とした武田泰淳の小説『ひかりごけ』に由来する。なお、武田は食人を行った徴用船の船長と接触したことはなく、小説はあくまでもこの事件をモチーフとした作品である。 == 経緯 == 太平洋戦争中の1943年12月、日本陸軍の徴用船が7人の乗組員を乗せて船体の修理のため小樽市へ向かう途中、知床岬沖でシケに遇い遭難した。 船員たちは船から避難し、知床半島ペキンノ鼻に降り立ったが、真冬の北海道で極寒のうえ、そこは雪と氷と吹雪に覆われた地域だった。徴用船の船長はすぐに他の船員たちとはぐれてしまったものの、一軒の小屋(番屋)にたどり着く。やがて船員のうち最年少の少年(19歳)一人もその番屋に吹雪の中たどり着いた。二人はしばらくそこで過ごしたが、やがて体力も消耗し食料もなく少年は死亡した。船長は彼の遺体を口にする。 翌1944年2月、徴用船の船長が羅臼町岬町に住む漁民一家の小屋に現れ、助けを求めた。知床岬の真冬の過酷さを知っている小屋に住む夫婦は驚愕した。船長は「船が難破し、他の乗組員は全て死亡したが上陸地点近くの番屋に蓄えられていた食糧(味噌・フキの漬物・ワカメなどの海草)や流れ着いたトッカリ(アザラシ)の肉を食べて生き延びた」と述べた。吹雪の中番屋にたどり着けたのは船長と炊事夫の男性一人だけだったと船長は語った。番屋にあったマッチで火を起こし、樽に残っていたわずかな味噌を雪で味噌汁にして食べたという。 船長が故郷に帰還すると、船長は「不死身の神兵」としてもてはやされた(ただし船長は民間人の立場で徴用されており、兵役にはついていない)。だが警察および軍部内で船長の言動あるいは生還の状況の不自然さから食人を疑う者が出始め、一部の者による独自の内偵が進められた。 2月18日、警察は船長の漂着地であるペキンノ鼻の南で現場検証を行った。その際、ペキンノ鼻の北で炊事夫の凍死体を発見・回収した。軍部から箝口令が出され、捜査を中断した。5月、船長が冬を越したとされる番屋の持ち主が、番屋近くでリンゴ箱に収められた白骨を発見し、警察に通報した。警察による現場検証が行われ、ペキンノ鼻の北で新たに二人の遺体が回収された。残る二人についても食人が疑われた(船長は否定)。 6月、警察は殺人、死体遺棄及び死体損壊の容疑で船長を逮捕した。警察の調べに対し船長は、乗組員の一人の遺体を食べたことを認めたが、殺人については認めなかった。 検察は船長を死体損壊容疑で起訴。刑法には食人についての規定がないため、食人の是非については裁判では問われなかった。8月、船長に対する心神耗弱が認められ、懲役1年の判決が下りた。 1954年、武田泰淳はこの事件をモチーフとした小説『ひかりごけ』を発表した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ひかりごけ事件」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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