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『ぷらいべえと』は、1977年4月25日に発表された、吉田拓郎の7枚目のスタジオ・アルバムであり、初めてのカバーアルバムである。 == 概要 == もともと本アルバムは制作の予定はなく、拓郎が発案したアルバム『クリスマス』の売上不振により、フォーライフが巨額の赤字を出した埋め合わせのため発売した〔ニッポン放送『坂崎幸之助と吉田拓郎のオールナイトニッポンGOLD』2011年11月22日放送〕。後藤由多加から「会社がやばい。拓郎何とかしてくれ。アルバムが大至急欲しい、何でもいい」などと泣きを入れられ、既に約束のアルバムはリリースした後で新曲のストックは無く、思案したところボブ・ディランの『セルフ・ポートレート』を思いつき、同じコンセプトに基づき、他人へ提供した曲と自身の愛唱歌を集めたカバーアルバムの制作を決めた〔〔俺達が愛した拓郎、石原信一他著、p130-131〕〔地球音楽ライブラリー 吉田拓郎、TOKYO FM出版、p37〕。 時間がないためユイ音楽工房にいたアマチュアミュージシャンを集めて短時間で制作したためスタッフ関係のクレジットが全く記載されていない。ドラムを叩いているのはドラム経験のない猫の内山修という〔。スタジオも取れず毎日夜中の0時から朝6時終わりで収録を行った〔。収録曲は全てスタジオレコーディングしたものでデモテープはない〔。 レコードジャケットも拓郎が週刊誌でキャンディーズのランちゃんを見てクレヨンで書いたもの〔。『やさしい悪魔』のレコードジャケットの真ん中をくりぬいた〔。女の子の回りを木で囲むなど『ぷらいべえと』のレコードジャケットは全体に緑色のため、それに合わせ初版のレコード盤は緑色だった。また初回特典にはポスターが付いた。 本アルバムは2000年代から増えはじめたカバーアルバムの先駆的なもので、現在では考えられないが、当時は"創作力のダウン"や"売らんかな主義"などと酷評もされた〔〔俺達が愛した拓郎、p221-204 吉田拓郎 挽歌を撃て、石原信一、八曜社、p119-120 ニューミュージック白書、1977年、エイプリル・ミュージック、p175〕。しかしながらメロディ・メーカーとしての才気やボーカリスト・吉田拓郎としての魅力も発揮したといえる〔俺達が愛した拓郎、p221-222〕〔歌謡ポップス・クロニクル 特集アスペクト39、アスペクト、p124〕。拓郎自身「やっつけ仕事の割にはよく出来た。当時フォーライフには社員が50人いて大半が家庭を持つ人たちで、フォーライフを救わなきゃと思った。必死だったんだろう。若かったから出来た」などと述べている〔。 カバーアルバムとして史上初のオリコン1位を獲得〔徳永英明、カバー作で15年10ヶ月ぶりの1位獲得! ニュース-ORICON STYLE 〕。皮肉なことに、この年フォーライフのアルバムで最大のセールスを記録し〔吉田拓郎ヒストリー 1970-1993、p46〕、フォーライフの危機を救った〔。売れたことに関しては「ボクのファンがこういうの聴きたがっているとは思わなかった。それは読めなかった」と拓郎は話している〔。パート2を作ってくれという営業サイドからの注文は頑強に断った〔〔吉田拓郎 挽歌を撃て、p120〕。 前述のように批判的な論調が多かったこともあって、カバーアルバムは当時大流行することも無く『ぷらいべえと』の次といえるものは、甲斐よしひろがソロ名義で出した1978年5月のアルバム『翼あるもの』となる〔新譜ジャーナル ベストセレクション'70s、2003年、自由国民社、p312 ※参考 井上陽水 FILE FROM 1969、TOKYO FM出版、2009年、p162〕。 また次に男性ソロアーティストがカバーアルバムで1位を獲得するのは徳永英明の『VOCALIST 3』(2007年)まで30年間待たねばならなかった〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ぷらいべえと」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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