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町村 信孝(まちむら のぶたか、1944年(昭和19年)10月17日 - 2015年(平成27年)6月1日)は、日本の政治家、通商産業官僚。 衆議院議員(当選12回〔ただし、2010年(平成22年)に小林千代美の議員辞職に伴い自身も辞職し、補欠選挙に出馬して当選しているため、実質的な任期は11期。〕)、文部大臣(第124・129代)、内閣総理大臣補佐官(教育改革担当)、科学技術庁長官(第62代)、文部科学大臣(初代)、外務大臣(135・136・139代)、内閣官房長官(第75代)、衆議院議長(第75代)などを歴任した。 == 経歴 == === 生い立ち === 静岡県沼津市に内務官僚・町村金五の次男として生まれた。町村家は、父・金五が静岡県水産課長時代からの縁で、沼津市郊外にあった静岡県原町漁業組合長植松与三郎の別宅に疎開していた〔「保守の論理 「凛として美しい日本」をつくる」 193-194頁〕。 東京学芸大学附属世田谷中学校、東京都立日比谷高等学校を経て東京大学経済学部卒業。 体格は、小学4年生の時点で身長1m60cm・体重60kgあり、相撲大会で優勝したこともあって、相撲部屋から勧誘されたことがある〔「保守の論理 「凛として美しい日本」をつくる」 120頁〕。高校ではラグビー部に入り、早稲田、慶應から勧誘された〔「保守の論理 「凛として美しい日本」をつくる」 120頁〕。 町村の東大在学中は東大紛争の真っ只中であり、ノンポリ学生のリーダーの一人として、東大紛争終結のための学生運動を率いた〔「保守の論理 「凛として美しい日本」をつくる」 113頁〕。 大学3年時に、サンケイ新聞社奨学金を受けて米国コネティカット州ウェスリアン大学に留学〔町村信孝ウェブサイト〕。 1968年(昭和43年)11月、東大経済学部ストライキ実行委員会の一人としておよそ1ヶ月のストライキを打っている〔田原総一朗著 『新・日本の官僚』 文春文庫,1988年 135頁〕。1969年(昭和44年)1月、秩父宮ラグビー場にて東大7学部の学生・教職員9千人が参加した“大衆団交”では議長役を務め、大学自治の議定書である「東大確認書」には経済学部代表として署名している〔。大学でもラグビー部に所属していた〔。 1969年(昭和44年)東大を卒業し、通商産業省(現・経済産業省)に入省。昭和44年入省同期組らで、「44」(しし)と高倉健の歌である「唐獅子牡丹」に掛けて、「獅子の会」なる集まりを結成し、エネルギー問題などに関して血判状(連判状)を作って大臣、事務次官らを突き上げたこともあった〔。その後、米国ジェトロ出向経験を経て、1982年(昭和57年)4月に通商産業省を退官する。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「町村信孝」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Nobutaka Machimura 」があります。 スポンサード リンク
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